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桜華楼物語

第12章 花里

我慢していたものが、堰を切ったように。
ひとしきり、激しく咳き込むと身体をくの字にして力なくぐったりと。

横たわる女の汗を拭いてやり、薬箱から煎じ薬を取り出し湯呑みに作りながら。

「…無理して大声を出すから…。良かったのかい? ずっと待ってた男なんだろう?」
「ええ…ずっと待ってましたよ。だから…会いたく無いんですよ。先生…」

先生と呼ばれた初老の男は養生所の医者。
出来た煎じ薬を女に飲まそうと、そっと抱き起こして口元に運ぶ。

半年前とはまるで変わってしまった顔色と痩せた身体は、触れたら折れそうに。
咳をする度に骨が軋むように痛み、体力を奪っていく。

女は死の病に囚われていた。

男が江戸を離れると知って、忘れないでと胸の中で泣いて。
必ず会いに来て…待ってるからとしがみついた。
もう、何度も何度も夢の中で思い浮かべた場面。
その度にハッと目覚めて、また咳き込んで。
涙が止まらずに夜明けを迎える…。

「あんまりにも会いたくて…。どうしてもっと早く帰って来てくれなかったんだって…。せめてあとふた月早く来てくれたら…なんてね。まるで逆恨み…馬鹿でしょ…私…」
何とも言えない切なそうに笑みを浮かべ。

「馬鹿なものかよ…。気休めみたいな薬しかくれてやれないのが…何ともやるせない。すまないね…」
苦しむ娘の前で無力感に暮れる父親のような顔で、そっと額に手を当てて。

「先生…そんな顔しないでくださいな。これも私の定めなんですよ。あの人が言うように天国には行けそうもないわ…」

天国には行けなくても…
せめてもの気持ちとして、最期は好いたままの姿を残して置きたかった。

待ち焦がれていた時の私のままで…

薬が効いて、女が寝息を立て始める。
その青白い寝顔を眺めながら…残りの時間を医者として計り。深い溜息が漏れる。

次の季節は迎えられそうもないと…。



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