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ユリの花咲く

第2章 瑞祥苑

昼食時間ギリギリになって、亡霊のような顔をした早見拓也が浴室から出てきた。

水浴びでもしたように、髪の毛から短パンまで汗びっしょりになっている。

「お疲れ様。今日はキツかったね。午前中に入浴介助5人って、さすがに若くても疲れるよね」

フロアーで、食前の口腔体操をしていた私は労いの言葉をかけた。

よろめくように、拓也が台所にいくと、昼食の盛り付けをしていた佐久間さんが冷たい麦茶を差し出した。

「拓也君、お疲れ。粗茶ですが、どうぞ」

「佐久間さん、あざあす!」

拓也はそれを受け取り、一息で飲み干した。

「くううっ!やっぱり、佐久間さんの入れたお茶は、粗茶でも旨いっす!お代わり!」

佐久間さんは笑いながら言う。

「愛情たっぷりだからね」

「それだけは、返上致します!」
拓也が、ベロを出した。

「ハイハイ、そりゃ、有紀さんみたいな美人が入れた方が美味しいでしょうよ。
もう、二度と飲むんじゃないよ!」

佐久間さんが言い返すが、これはいつものルーティーンみたいなものだ。

こんな馬鹿なことを言い合って、束の間のストレス発散を図る。

私は、口腔体操を終え、キッチンに行ってそれに加わった。

「佐久間さん、勘弁してくださいよ。
私、お子ちゃまには興味ありませんから」

「ええっ!オレもう25っすよ」
拓也が異議を唱えた。

3人で冗談を言いながらも、私の目は、用意されたトレーに注がれている。

おかずの量は公平か?
刻み食の利用者の分はきちんと刻まれているか?
ご飯の人と、お粥の人と、間違ってないか?
トロミ食の人の分は間違ってないか?
食前服用の薬はセットされているか?

健常者なら『ごめんなさい』で済まされるが、年配者相手では、即座に事故に繋がってしまう。
ちょっとした不注意による重大事故が、他の老人施設では数えきれないほど発生しているのだ。


*刻み食・・・おかずを細かく刻んで提供するこ と。その大きさによって、粗刻み、極刻み等と呼んで区別する。

*トロミ食・・嚥下(飲み込み)機能の衰えた人には、片栗粉等でトロミをつけたり、おかずをあんかけにしたりする。

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