短編集 一区間のラブストーリー
第9章 短編その九
「ごめんください」
格子戸をくぐり抜け、
昔ながらのガラスの引き戸を開けると
いつもならば玄関には所狭しと並べられている草履が一足もなかった。
「どうぞ、お上がりやすぅ」
ほんのりとした京言葉が奥の間から聞こえてくる。
京の町屋は鰻の寝床とよく言ったもので
細い廊下がかなり先まで続いていた。
声は突き当たりの小部屋から聞こえてくる。
「お邪魔します」
若月翔太は靴を脱ぐと、
勝手知ったる廊下をどんどんと脚を運んだ。
「失礼します」
目的の部屋の前で正座をして静かに襖を開けた。
講師の鈴木明日香が
部屋の奥で待ち構えていた。
翔太は明日香の姿を見てドキリとした。
いつもは茶色系統や紺色の着物なのだが
今日の明日香はレモン色の明るい着物を着用していた。
「なにぼーっとしてはるん?
はよ、お入りやす」
雰囲気が変わると
声色までなんとなく艶っぽく聞こえた。
翔太は京都の会社に勤務し始めて二年になろうかとしていた。
東京の都会育ちの翔太には古風な京都の風土になかなか馴染めなかったが、
せっかく京都に住んでいるのだからお茶の作法でも習おうとお茶会教室の門をくぐったのだ。
習い始めてはや一年にもなろうかというのに
お茶のお点前の腕はすこぶる遅かった。
いつもは8名ほどの女性陣に囲まれて
四畳半の部屋で小さくかしこまっていたので
緊張のあまり作法がなかなか身につかないでいた。
だが、降ってわいたような感染病のせいで
多人数でのお稽古が難しくなった。
一時は解散しようかという雰囲気にもなったが
お弟子さんの一人が
一対一のマンツーマンならよろしいのではないかと提案してくれて
師匠の明日香とマンツーマンの習い事をすることとなった。
翔太にとっては
今日が対面指導の初日となったわけだ。