許容範囲内
第1章 愚痴る
他人にぶつからぬよう、チャージを確認しながら品川駅の改札を出る。
日曜日の午後二時。
家族連れが駅前のレストランを占拠する傍らを歩きながら、昨日この辺りで貰ったクーポン券を取り出す。
「確か、向こう側だよな」
昨年オープンしたばかりの理髪店。
信号待ちの人だかりに近づきながら、少し乱れた髪を手で撫でる。
ー貴方の髪形好きよー
そう言われて同じ美容師に同じ切り方を頼み続けた十二年。
馬鹿みたいに。
コツコツと革靴を鳴らしながら歩く。
緑のチェックシャツと紺のパンツはあいつのセレクトだった。
テラス付きのカフェを曲がり、目当ての店名を見つける。
黄色い壁に、白いボーダーライン。
青の屋根。
ああ。
随分爽やかな店頭だな。
木の取手を押して、中に入る。
ふわりと、コロンの香りが迎えた。
「いらっしゃいませ」
ブラウンのハーフエプロンを巻いた店員が腰回りの器具をガチャガチャ言わせながらやって来る。
「予約していた八条ですが」
「八条様、二時半のご予約ですね」
時計を一瞥すると十分前。
「早く来すぎたか……」
「いえいえ。お席にご案内いたします。此方です、どうぞ」
二段ほど上がって四脚の並んだ椅子に案内される。
オレンジの照明に照らされた店内には客は一人だけだった。
ドライヤーの途中であろう耳元までの黒髪から水滴を落としつつ、こちらを振り向く。
細い眉に、垂れ目の二重と浮き出た頬骨。
意地の悪そうな唇が持ち上がった。
「どうも」
「……どうも」
ぎこちなく座ると、すぐに首回りにタオルを巻かれる。
「一川様、お待たせしてすみません」
店員が頭を下げると、一川と呼ばれた男は首を振って笑った。
「構わないって。ここ一人で経営してんの大変そうだしな」
「一人なんですか?」
「ええ。オープニングスタッフを先月解雇しましてね。今は募集中です」
スッと髪に指が入れられ、首筋に風が走った。
綺麗な指だ。
「夏に向けて大分鋤いて欲しい」
「畏まりました」
「横と前は短めで」
これ以上は殆ど会話をしない。
それが通例だった。
雑誌を読んでいると、ドライヤーをかけられている一川の視線を感じた。
なんだ。
見かけは同年代に思われるのだが。
どうにも軽々しい態度が気に食わない。