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第3章 連れ出す


 砕けた氷が喉仏を過ぎていく。
 ふわりと香りが鼻孔を抜けて、ストレスと一緒に体から排出されていく。
「八条さんて、ほんと美味そうに飲むよね」
「美味いですから」
 五木が脱力して笑う。
「くくっ。いいわー。八条さんていいわ」
「なんすか、それ」
 反応に困ることを言うのは五木の趣味なのだろう。
 にやけたまま煙草を取りだし、このために生きているかのように恭しく火を点ける。
 その小さな炎が音もなく首をもたげるように揺れた。
 肌が感じ取ると同時に全身を飛ばすような風が吹いた。
「うっわ」
 九出が髪を押さえる。
 八条も目を細めて、風に背を向けた。
 ビル風というよりも突風。
「あーあ、火が」
 五木だけは微動だにせず、ライターを見下ろした。
「何いまの」
「凄かったっすね」
 体の裏側まで洗い流された爽快感だけ残して。
 ここからは少し暇になる。
 創作の余裕も生まれる。
 冷蔵庫の中身を思い出しながら、今夜の夕食を計画できる。
 のんびりした午後が八条は好きだった。
「休憩ってあっという間」
 九出が目をぐるりと回して厨房に戻っていった。
 扉が閉まってから、五木がまっすぐに八条を見つめる。
「まじめな話な」
「……なんですか」
「二階堂先輩が一川くんに手を出したらどうすんの、八条さん」
 笑い飛ばせない声色だった。
 そこでやっと二階堂という存在の大きさを思い知る。
 そうか、あり得ない話じゃない。
 さっきの二人の様子を見ていても、あり得ない話じゃない。
「別に、どうもしませんよ」
「そっか。変なこと聞いたな」
 予想外にあっさりと引き下がられると靄がかかる。
 だが、そんなこと気にも留めずに五木は手洗いだと言って中に入って行ってしまった。
 二階堂と一川。
 あの二人がどうなるかなんて想像もつかない。
 だが、なんだろう。
 こう、いい気分ではないな。
 紅茶を飲み干して、ビルの間から青空を見上げる。
 心をざわつかせておいて、風は振り返ることなくとっくに隣の県までたどり着いている。
 台風一過とはよく言ったものだ。
 小さく首を振って、厨房に戻る。
 仕事に集中だ。
 そう決めて顔を上げると、七瀬が手招いていた。

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