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磯撫デ

第1章 ひとつ目のお話「海に招かれる」

ホテルの外に飛び出る。晩夏の生ぬるい夜の風が潮の匂いを運んでくる。あたりをざっと見渡すと、左の方、100mくらい離れたところに人影が見えた。確かに海に向かって歩いている。

助けなきゃ!

俺は走り出した。砂浜に足を取られるので思うように走れないが、月明かりを頼りにその影を追った。影は右に左にフラフラしながら、もう、すでにくるぶしくらいまで海に浸かっているのではないかという感じだった。

そして、俺が波打ち際にたどり着いたときには、その影は、もう肩まで海につかっているところだった。やはりだだことじゃない。

「おーい!待て!待て!」

俺は叫んでいた。叫びながら、自分も海に入っていく。もう人影は首から上しか見えない。

やばい!やばい!!

俺は夢中で水をかき分け、影に近づこうとする。影にはなかなか近づけない。逸る気持ちと進まない足取りにじれったさを感じて必死だった。

その時、突然、ぐい!と腕を後ろに引っ張られた。

え?!

振り返ると、Aが俺の腕を引きながらすごい形相でにらみつけていた。

「お前!何してんだ!正気か!!」

え?だって、あそこに人が

俺は振り返る、しかし、そこにはさっきまでいたはずの人の影はなかった。沈んでしまったのだろうか?いや、おかしい。Aには見えていないようだ。
Aは俺を引きずるようにして海岸まで連れて行った。気がつけば俺は、胸のあたりまで水に浸かっていたらしい。

息を切らせて、二人で海岸に腰を下ろした。
「お前、何してんだよ・・・もう少しで死ぬところだったぞ!」
Aは息を切らせながら言った。

Aによると、夜中に突然俺が部屋を飛び出したものだから追いかけてきたらしい。そうしたら、俺がまっすぐ海に突っ込んでいったので、慌てて引き止めた、とそういうわけだった。ちなみにAは浴衣のままだった。

俺が見ていた影のことも言ったが、Aには全く見えていなかったらしい。
とにかく部屋に帰ろう、と俺たち二人はホテルに向かって歩き始めた。

途中、ふと、後ろを振り返ると、海から上半身だけ出しているような人影が手招きしているのが見えた気がした。

しかし、あのあたりはとてもじゃないが、足がつくところではない。
ここで、やっと俺は思い至った。

そうか、『呼ばれていた』のは、
俺だったのだ。

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