
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第30章 花惑い
この部屋は泉水が出ていった五年前と一切変わってはいなかった。恐らくは毎日、腰元たちが掃除をし、女主人が暮らしていた頃そのままに保ってきたのだろう。それを泰雅が命じたのであろうことは容易に察しがついた。本当ならありがたいと思うような気遣いにも拘わらず、かえって疎ましいものに思えるのは、やはり泰雅への気持ちが既に冷めきっているからに相違ない。
床の間の脇には黒塗りの違い棚がしつらえてある。床の間にある掛け軸は墨絵の桜が一輪、墨の跡も鮮やかに勢いよく描かれていた。その前には、いかにも高価そうな青磁の壺がに数本の山吹が投げ入れられている。大人であれば、ひと抱えもあるその大ぶりな花は黄金色(こがねいろ)の花をたわわにつけ、部屋内に彩りを添えている。
相も変わらず、泉水にとって、この居心地良く整えられた室内は牢獄のように思われる。いや、以前にも増して、我が身はここからけして逃れられぬ囚われ人なのだという想いは強い。泰雅に半ば脅迫された形で、ここに連れ戻されてしまった今、再び逃れようすべがあるとは思えなかった。泉水の行動一つで、師光照や懐かしい月照庵に累が及ぶのかと考えれば、我が身の感情だけで軽はずみには動けない。そして、そのような状況に追い込む泰雅に対しての気持ちはますます冷めてゆく。
泰雅は泉水を愛するがあまりに縛りつけ、拘束する。そのために、余計に泉水の心が泰雅から離れてゆくのは皮肉なことではあった。
ふと、うち沈んだ部屋の雰囲気とはそぐわない、長閑な鳥の啼き声が静寂を破る。泉水はハッと我に返り、立ち上がった。それまで座っていた縁に佇み、小柄な身体を伸び上がらせる。啼き声は庭の片隅の垂れ桜の方から聞こえてくるようだ。なおも眼を凝らしていると、漸く啼き声の主を発見した。
鶯であった。深緑色の小さな身体がたっぷりと花をつけた枝先にちょこんと止まっている。この垂れ桜は遅咲きの珍しい品種で、江戸市中の桜は既に散ってしまったというのに、まだ満開である。花の色は薄い桃色ではなく、緋色に近い紅。小さな花を無数につけた枝先が地面に届きそうなほどに、重たげにしだれている。
鶯は愛らしい声でしきりに囀っている。
泉水は無意識の中に庭に降りていた。草履も履かずに、素足であることなぞ眼中にもない。
床の間の脇には黒塗りの違い棚がしつらえてある。床の間にある掛け軸は墨絵の桜が一輪、墨の跡も鮮やかに勢いよく描かれていた。その前には、いかにも高価そうな青磁の壺がに数本の山吹が投げ入れられている。大人であれば、ひと抱えもあるその大ぶりな花は黄金色(こがねいろ)の花をたわわにつけ、部屋内に彩りを添えている。
相も変わらず、泉水にとって、この居心地良く整えられた室内は牢獄のように思われる。いや、以前にも増して、我が身はここからけして逃れられぬ囚われ人なのだという想いは強い。泰雅に半ば脅迫された形で、ここに連れ戻されてしまった今、再び逃れようすべがあるとは思えなかった。泉水の行動一つで、師光照や懐かしい月照庵に累が及ぶのかと考えれば、我が身の感情だけで軽はずみには動けない。そして、そのような状況に追い込む泰雅に対しての気持ちはますます冷めてゆく。
泰雅は泉水を愛するがあまりに縛りつけ、拘束する。そのために、余計に泉水の心が泰雅から離れてゆくのは皮肉なことではあった。
ふと、うち沈んだ部屋の雰囲気とはそぐわない、長閑な鳥の啼き声が静寂を破る。泉水はハッと我に返り、立ち上がった。それまで座っていた縁に佇み、小柄な身体を伸び上がらせる。啼き声は庭の片隅の垂れ桜の方から聞こえてくるようだ。なおも眼を凝らしていると、漸く啼き声の主を発見した。
鶯であった。深緑色の小さな身体がたっぷりと花をつけた枝先にちょこんと止まっている。この垂れ桜は遅咲きの珍しい品種で、江戸市中の桜は既に散ってしまったというのに、まだ満開である。花の色は薄い桃色ではなく、緋色に近い紅。小さな花を無数につけた枝先が地面に届きそうなほどに、重たげにしだれている。
鶯は愛らしい声でしきりに囀っている。
泉水は無意識の中に庭に降りていた。草履も履かずに、素足であることなぞ眼中にもない。
