胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第37章 花の別れ
その征も三十七、幸いにも良き男とめぐり逢い、所帯を持って三人の子を生んだ。征の亭主は飾り職人で、一家は裏店暮らしではあるが、家族が労り合い、支え合って慎ましく暮らしている。征は女として幸せな人生を歩んできたといえるだろう。その征は一男二女に恵まれたが、その長女富(ふう)は既に日本橋の呉服太物問屋に嫁ぎ、跡取りとなる男児をあげている。器量良しで評判の富は、通りすがりの大店の若旦那に見初められ、玉の輿と他人に羨まれながら嫁いでいった。
「私も歳を取るはずよの」
泉水は独りごちた。孫どころか、ひ孫までいる歳になった。もう、本当にいつ死んでも思い残すことはない。
あと、いかほど生きるのかは判らぬけれど、黄泉路に旅立てば、亡くなって久しい兵庫之助にまた逢えるのかと思えば、そう悪くはないような気もする。
こうして眼を閉じれば、これまでの生涯の様々な出来事が脳裡に浮かんでは消えてゆく。想い出が次々に溢れ、零れ落ちてゆく。
無我夢中で生きてきた年月が今はただ愛おしい。死にたいと思うほど哀しい出来事もあったけれど、そんな辛かった想い出もどこかに置き去りになり、我が身もそこにないような、夢路を辿る心地だった。
そう、まるで蝶が花のかぐわしい香りにいざなわれるように、運命(さだめ)に導かれるがままに生きてきたような気がする。
人の一生は赤児が眠りの合間に見る一瞬の夢だと聞いたことがある。だとすれば、ここまで流れ流されてきた我が身の人生もまた、束の間の夢であったのだろうか。
蝶が花に止まり、ひととき、たゆたう浅き眠りの狭間に見た夢―、それが人の生涯なのかもしれない。
再び今はただ一人の尼となった泉水の頬をつうっと涙が流れおちていった。
【完】
泉水の激動の生涯もいよいよ終わります。泰雅と泉水の幸せな新婚時代から、宿命によって決別するまでの長い夫婦の物語をお読みいただきまして、本当にありがとうございます。
心からの感謝を―。作者
「私も歳を取るはずよの」
泉水は独りごちた。孫どころか、ひ孫までいる歳になった。もう、本当にいつ死んでも思い残すことはない。
あと、いかほど生きるのかは判らぬけれど、黄泉路に旅立てば、亡くなって久しい兵庫之助にまた逢えるのかと思えば、そう悪くはないような気もする。
こうして眼を閉じれば、これまでの生涯の様々な出来事が脳裡に浮かんでは消えてゆく。想い出が次々に溢れ、零れ落ちてゆく。
無我夢中で生きてきた年月が今はただ愛おしい。死にたいと思うほど哀しい出来事もあったけれど、そんな辛かった想い出もどこかに置き去りになり、我が身もそこにないような、夢路を辿る心地だった。
そう、まるで蝶が花のかぐわしい香りにいざなわれるように、運命(さだめ)に導かれるがままに生きてきたような気がする。
人の一生は赤児が眠りの合間に見る一瞬の夢だと聞いたことがある。だとすれば、ここまで流れ流されてきた我が身の人生もまた、束の間の夢であったのだろうか。
蝶が花に止まり、ひととき、たゆたう浅き眠りの狭間に見た夢―、それが人の生涯なのかもしれない。
再び今はただ一人の尼となった泉水の頬をつうっと涙が流れおちていった。
【完】
泉水の激動の生涯もいよいよ終わります。泰雅と泉水の幸せな新婚時代から、宿命によって決別するまでの長い夫婦の物語をお読みいただきまして、本当にありがとうございます。
心からの感謝を―。作者