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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第32章 変化(へんげ)

 泉水は居間に戻り、脇息を引き寄せ、もたれかかった。何もかもがただ厭わしく、空しい。色欲に囚われ、溺れる泰雅も、その泰雅の手を逃れんがために、稚き娘を贄(にえ)とし、のうのうと安んじている我が身も―。
 自分は鬼になったのだと、改めて思った。
 泰雅には、一人の人間として見過ごしにはできぬことがあると言いながら、その実、どうだろう。自分が泰雅の毒牙から逃れために、平然と他の娘を身代わりにする。
 でも、どうしてもできなかった。
 あの時、泰雅に囚われた少女の代わりになるとは言い出せなかった。
 何故、言えなかったのか。言わなかったのか。泉水は泰雅のれきとした妻なのだ。泰雅の求めに応じたからとて、何の不自然もなく、泉水一人が耐えれば済むことであった。
 あの年端もゆかぬ娘には、まだ未来があった。もしかしたら、惚れた男や許婚者がいたかもしれない。その未来を、夢を、希望をむざと潰えさせてしまった。
 娘の助けを求めていた悲壮な声、涙を一杯に溜めていた眼が灼きついて離れない。助けを求めるように差し出されたあの手を、自分は無情にも振り切った。
 鬼や夜叉でなければ、到底できないことだ。
 泉水はうなだれ、罪の意識に苛まれた。
 耳奥では、哀れな娘の悲鳴が途絶えることなく何度もこだましていた。

 その夜、腰元の美倻から報告があった。泉水はあらかじめ、美倻にあの娘がその後、どうなったのかを調べるようにと頼んでおいたのである。その点、美倻は頼りになる存在であった。かつて時橋が愕くべき情報収集力を持っていたように、美倻もまた、あちこちから様々な情報を仕入れてくることに長けていた。
 姐御膚で面倒見の良いところが、この場合、大いに役立っているのだ。大勢の朋輩たちの間を巧みに泳ぎ回り、色々な情報を掴んでくる。この屋敷に戻ってきてからまだひと月も経ってはいないが、美倻と泉水の間には、強い信頼関係ができつつあった。
「どうやら、殿は、あの娘を正式な側室となさるおつもりのようにございます」
 その言葉は、とにもかくにも泉水をホッとさせた。一時の慰みものにしただけで捨て置くのかとも思っていたのだ。

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