淫らな死体~お嬢さま春泉の秘密~④
第1章 柳家の娘
結局、春泉はそのまま男に背を向け、逃げるように走り去った。
「あっ、あの。どたなさまかは存じませんが、お嬢さまをお助け頂き、ありがとうございました。主に成り代わり、お礼を申し上げます」
春泉の真後ろに控えていた玉彈が男に律儀に頭を下げ、慌てて〝お嬢さま、お待ち下さいませ〟と叫びながら、後を追いかけてゆく。
しばらく呆気に取られていたように立ち尽くしていた男が肩をすくめた。
「フン、これだから金持ちの令嬢は扱いにくいねえ。助けてやったのに、良い歳をして礼の一つも言えねえとは始末に負えねえや」
男は毒づきながら、そっと大きな手のひらで自らの両頬を撫でる。
「馬鹿力で思いきり叩きやがってよ。しかも、一度ならず二回だぜ」
長身で大人びた顔立ちのせいか、よく二十歳過ぎに間違われるが、時折、かいま見せる屈託ない素顔から、この男がまだ十代であろうことを窺わせる。
背後でプッと吹き出す音が聞こえ、男はつと振り向いた。その整いすぎるほど整った面から笑みが消え、代わりに凄みのある表情が浮かんでいる。
「おい、お前。今、笑ったな?」
「い、いや。気のせいだろう」
先刻の露天商―春泉に法外な値でノリゲを売りつけようとした男が怯えた顔で店先に座っている。
大方、春泉に男が二度も引っぱたかれるのを高みの見物していたに相違ない。
「おっさん。今度、あんな無茶をしたら、本当にどうなるか判ってるんだろうな」
せめてもの意趣返しにと必要以上に脅してやると、案の定、小心な男は震え上がり、真っ青だ。
「わ、判ってるさ。もう、あんな真似はしない」
「判ってるのなら、それで良い」
光王と呼ばれた若い男はもう一度、ギロリと露天商を睨みつけると、脚音も荒くその場から立ち去り、やがて大路を行き交う人の群れに混じって見えなくなった。
若い男の姿が人波に呑まれたのを確かめてから、露天商の主人は大息をつく。
「あれが噂の光王か。怖ェ、怖ェ。うっかり、あんな奴に眼っこ入れられたら、それこそ本当に商売上がったりだぜ」
光王、その名は、都で危ない橋を渡ったことのある者、闇の世界と一度でも拘わったことのある者であれば、必ず知っている名であった。
「あっ、あの。どたなさまかは存じませんが、お嬢さまをお助け頂き、ありがとうございました。主に成り代わり、お礼を申し上げます」
春泉の真後ろに控えていた玉彈が男に律儀に頭を下げ、慌てて〝お嬢さま、お待ち下さいませ〟と叫びながら、後を追いかけてゆく。
しばらく呆気に取られていたように立ち尽くしていた男が肩をすくめた。
「フン、これだから金持ちの令嬢は扱いにくいねえ。助けてやったのに、良い歳をして礼の一つも言えねえとは始末に負えねえや」
男は毒づきながら、そっと大きな手のひらで自らの両頬を撫でる。
「馬鹿力で思いきり叩きやがってよ。しかも、一度ならず二回だぜ」
長身で大人びた顔立ちのせいか、よく二十歳過ぎに間違われるが、時折、かいま見せる屈託ない素顔から、この男がまだ十代であろうことを窺わせる。
背後でプッと吹き出す音が聞こえ、男はつと振り向いた。その整いすぎるほど整った面から笑みが消え、代わりに凄みのある表情が浮かんでいる。
「おい、お前。今、笑ったな?」
「い、いや。気のせいだろう」
先刻の露天商―春泉に法外な値でノリゲを売りつけようとした男が怯えた顔で店先に座っている。
大方、春泉に男が二度も引っぱたかれるのを高みの見物していたに相違ない。
「おっさん。今度、あんな無茶をしたら、本当にどうなるか判ってるんだろうな」
せめてもの意趣返しにと必要以上に脅してやると、案の定、小心な男は震え上がり、真っ青だ。
「わ、判ってるさ。もう、あんな真似はしない」
「判ってるのなら、それで良い」
光王と呼ばれた若い男はもう一度、ギロリと露天商を睨みつけると、脚音も荒くその場から立ち去り、やがて大路を行き交う人の群れに混じって見えなくなった。
若い男の姿が人波に呑まれたのを確かめてから、露天商の主人は大息をつく。
「あれが噂の光王か。怖ェ、怖ェ。うっかり、あんな奴に眼っこ入れられたら、それこそ本当に商売上がったりだぜ」
光王、その名は、都で危ない橋を渡ったことのある者、闇の世界と一度でも拘わったことのある者であれば、必ず知っている名であった。