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淫らな死体~お嬢さま春泉の秘密~④

第2章 ひとりぼっちの猫

 一度、母の友達の夫人が
―こちらのお嬢さまの唇の色の美しいこと。どのような紅を使っていらっしゃるの?
 と訊ねたことがあった。春泉が何も塗っていないのだと応えると、感嘆したように頷き、〝羨ましいこと〟とお世辞ではなさそうに褒めてくれた。この夫人は父とは同業の商人の奥方ではあったが、母と同じく派手好きで、母の金目当てに集まってくる取り巻きたちの中では物静かで地味な感じの女性だ。
 光王の指摘は、けして間違ってはいなかった。
 春泉はムキになったように首を烈しく振る。屋敷に帰ってからの自分はどうかしている。あのならず者―もちろん光王のことだ―のことばかり考え、気がつけば、あの男の面影を瞼に甦らせている。
 どう見たって、真っ当な若者とは思えない。むろん、いでたちはごく普通の庶民のものではあったが、彼の纏う雰囲気は到底、年相応の少年のものではなかった。圧倒的な存在感とでもいうのか、彼に見つめられ、何かを命じられれば、つい従ってしまうような―人をその気にさせてしまう魅力がある。傲慢さの中にも相手の心を蕩かせ、惹きつけてやまない不思議な力があるのだ。
 春泉が躍起になるほど、光王の面影はより鮮やかに甦ってくるのだった。
 我ながら、大人げないふるまいであった。あの男のその他の無礼なふるまいはともかく、春泉をあの露天商から救ってくれたのだ。そのことに対しては、素直に感謝し、礼を述べるべきであったろう。
 それに、光王は助けてくれた礼を言わなかった春泉が眩暈を起こした時、咄嗟に脇から支えてくれた。あの時、光王が支えてくれなければ、春泉は間違いなく地面に転倒していたはずだ。
―お前は小間物の目利きができるのか?
 その前に横柄に訊ねた春泉に、彼は〝礼儀知らずの小娘〟と返してきたけれど、それは当然の言葉であったろう。光王はけして裕福そうには見えなかったが、かといって、彼は春泉の屋敷の使用人ではないのだ。
 その彼に向かって、あたかも使用人相手のような物言いはあの場ではすべきではなかった。しかも、彼は春泉の危機を救ってくれたにも拘わらず、春泉は彼にまともな礼一つ述べてはいなかったのだから。
 あの場では、いや、今でも絶対に認めたくないことではあるが、転びそうになった春泉を支えてくれた光王の手を邪険に振り払ったのは事情がある。

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