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偽装結婚~代理花嫁の恋~

第3章 ★ 衝撃 ★

 何故なのだろう。女と見れば愛想を振りまき、節操のない猫のようにすり寄っていくのに、あの男は信用できる―と、心のどこかで確信めいた勘が告げている。
 それは妙なたとえだけれど、何かアクシデントが起きる前に感じる予兆めいたものととてもよく似ていた。
 あの男は信用できる、約束だけは守る男だ。
 並んでいる数字を眺めながら、由梨亜は自分の勘が外れてはいなかったことに確信を深めた。自分の眼に狂いはなかった。
 ATMの次は、駅前でクッキーの詰め合わせを求め、一旦、自宅まで戻った。誰もいない家に帰るのはひどく侘びしいものだ。特に今は母が待っていてくれるわけではない。
 しかし、そんな感傷に浸っている暇はない。由梨亜は大急ぎで箪笥の引き出しを開け、ボストンバッグに当座の入り用なもの―下着やパジャマ、洗面用具など母の持ち物を詰める作業に没頭した。
 昨日は救急車で搬送されたため、何も入院準備ができていない。一時間ほどかかって、やっと必要と思われるものを詰め終わり、また家を出て、きちんと鍵を締めた。
 数件先の酒木さんのお宅を訪ねると、母の数少ない友人の一人はぽっちゃりとした顔を曇らせた。
「大変だったわねぇ。お母さんのこと」
「昨夜は酒木さんが母を見つけて、救急車まで手配して下さったったと聞きました。叔母に連絡を入れて下さったのも酒木さんだそうで。本当に何とお礼を申し上げて良いのか、言葉もありません。色々とお世話になりました」
「いいえ、ご近所なんですもの。当たり前のことをしただけよ」
「これは一つですが、どうぞ」
 駅前で求めたクッキーを差し出すと、酒木さんは大仰な身振りで手を振った。
「そんな、お礼なんて頂いたら、かえって戸惑ってしまうわ」
 由梨亜は真顔で首を振る。
「母はもう十年前から心臓を患っていたんです。ですから、もし発見が遅ければ、最悪の場合もあったかもしれません。私、本当に感謝しているんです。ですから、どうぞ、私の気持ちだと思って受け取って頂けませんか」
 そんなことならと、酒木さんは快く受け取った。

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