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神さま、あと三日だけ時間をください。

第4章 ♭切ない別れ♭

「何だ? 帰るなり、話さなくちゃならないほど大切なことか?」
 まるで毛を逆立てる猫のような夫に少し違和感を憶えながら、美海は小さな声で告げた。
「赤ちゃんができたみたい」
 しばらくポカンとしていた琢郎がやがて声を上擦らせた。
「ほ、本当なのか?」
「ええ、今朝、検査薬で調べてみたら、ちゃんと陽性が出てたから、間違いはないと思うの」
「今、判ったということは、二ヶ月前にできたんだな」
 たぶん、と、美海は恥じらいながら頷いた。
 この時、琢郎があからさまに安堵の表情を浮かべたことに、美海は気づかなかった。
 まさか、男と一緒だったのなら、不倫相手と泊まった旅先で、妊娠検査薬など買って妊娠を調べはしないだろう。同窓会と嘘をついていたのも、たまには家庭も何もかも忘れて、一人でゆっくりしたいという主婦らしい願いだったのではないか。
 大体、琢郎という男は気難しい割には、とても単純なところがあった。何でも突き詰めて考えるのは苦手で、楽観的に物事を考える傾向がある。
 琢郎は妻が不倫をしていたのは、やはり、気のせいににすぎなかったのだと安易に結論づけたのだが―、結果としては、それが二人を救うことになった。
 また、琢郎自身が〝妻は浮気などしていなかったのだ〟と信じたかったという気持ちのせいもあるだろう。
「子どもか、子どもが生まれるのか。俺たちもとうとう親になれるんだな」
 琢郎の眼に光るものがあった。
「ありがとう、美海」
 琢郎のそのひと言は美海の心をついた。礼などついぞ口にしたことのない夫の心からの言葉だと判った。
「さあ、帰ろうか。お前も疲れただろう、これからは無理は禁物だ」
 琢郎が黙って美海のボストンバッグを受け取った。先に歩く大きな背中を見ている中に、またしても涙が溢れてきた。
 自分は、この男と共に生きてゆく道を選んだ。すべては終わったのだ。
 醒めない夢はなく、夢にはいつか終わりが来る。
 美海は夫と並んで歩きながら、やっと帰ってきた現実の世界へと一歩脚を踏み出した。


 その夜、今日という日から明日へと日付が変わる瞬間、美海は携帯電話のメール履歴やシュンと撮った画像データをすべて消去した。
  (了)

 ☆ 最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。 作者 ☆
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