
山茶花(さざんか)の咲く村~男装美少女の恋~
第1章 騒動の種
丁度、男の指先は凛花のほつれ髪の手前で止まった。触れるか触れないか、ぎりぎりの危うい距離である。
「私から逃げようとするな。私をけして怒らせるでない。私は欲しいものを手に入れるためには、手段を選ばぬ。できれば、そなたを苦しめたくはないのだ。判ってくれ、凛花」
男の手が凛花の髪にまさにほんのひと刹那、触れたその瞬間、凛花は身を翻した。
まるで小鳥が捕らえようとする心ない狩人から逃れるように早足で去ってゆくその後ろ姿を、男は無言で見送る。
「―私を怒らせぬ方が身のためだ」
ややあって、男が洩らした呟きは吐息のように儚く空中に消えた。
一方、凛花は夢中で歩いていた。ただ、ひたすら前に進むことだけを考えて歩き、漸く男と共にいた場所から少し離れたところまで来たと思った時、脚を止めた。
―一体、あの男は何なの?
蜘蛛は網に掛かった獲物を嬲り、ついには喰らい尽くしてしまう。恐らく、獲物が網にかかるのをじっと待つ蜘蛛も、あのような粘着質で陰惨な眼をしているのではないか。まるで憑かれたかのように炯々と輝いていた双眸は、気丈な凛花でさえ薄気味悪いとしか思えなかった。
男の手は凛花の髪に触れたというよりは、ほんの一瞬、表面を掠めたにすぎなかった。それでも、凛花は触れられた一部が穢れてしまったような気がしてならない。あんな男にたとえほんの少しでも触れる隙を与えてしまった我が身も許せなかった。
思い出すだけで、身体を戦慄が駆け抜けてゆく。凛花は我が身をかき抱くように、両手を身体に回した。
駄目、駄目。
自分に強く言い聞かせる。このままでは、それこそ向こうの思う壺に違いない。凛花が嫁ぐと決めた相手はこの世でただ一人、皇文龍なのだ。たかだか脅かされたくらいで、心を不安に揺らしていては駄目、文龍に対して申し訳ない。
だが、と、凛花の思考はどうしても悪い方へと流れてゆく。あの暗い眼をした男はある意味で気違いには相違ないかもしれないが、どこまでも真剣であることもまた事実だ。
最初は質の悪い冗談か、先日の意趣返しにからかわれているのだとしか思わなかった。
「私から逃げようとするな。私をけして怒らせるでない。私は欲しいものを手に入れるためには、手段を選ばぬ。できれば、そなたを苦しめたくはないのだ。判ってくれ、凛花」
男の手が凛花の髪にまさにほんのひと刹那、触れたその瞬間、凛花は身を翻した。
まるで小鳥が捕らえようとする心ない狩人から逃れるように早足で去ってゆくその後ろ姿を、男は無言で見送る。
「―私を怒らせぬ方が身のためだ」
ややあって、男が洩らした呟きは吐息のように儚く空中に消えた。
一方、凛花は夢中で歩いていた。ただ、ひたすら前に進むことだけを考えて歩き、漸く男と共にいた場所から少し離れたところまで来たと思った時、脚を止めた。
―一体、あの男は何なの?
蜘蛛は網に掛かった獲物を嬲り、ついには喰らい尽くしてしまう。恐らく、獲物が網にかかるのをじっと待つ蜘蛛も、あのような粘着質で陰惨な眼をしているのではないか。まるで憑かれたかのように炯々と輝いていた双眸は、気丈な凛花でさえ薄気味悪いとしか思えなかった。
男の手は凛花の髪に触れたというよりは、ほんの一瞬、表面を掠めたにすぎなかった。それでも、凛花は触れられた一部が穢れてしまったような気がしてならない。あんな男にたとえほんの少しでも触れる隙を与えてしまった我が身も許せなかった。
思い出すだけで、身体を戦慄が駆け抜けてゆく。凛花は我が身をかき抱くように、両手を身体に回した。
駄目、駄目。
自分に強く言い聞かせる。このままでは、それこそ向こうの思う壺に違いない。凛花が嫁ぐと決めた相手はこの世でただ一人、皇文龍なのだ。たかだか脅かされたくらいで、心を不安に揺らしていては駄目、文龍に対して申し訳ない。
だが、と、凛花の思考はどうしても悪い方へと流れてゆく。あの暗い眼をした男はある意味で気違いには相違ないかもしれないが、どこまでも真剣であることもまた事実だ。
最初は質の悪い冗談か、先日の意趣返しにからかわれているのだとしか思わなかった。
