山茶花(さざんか)の咲く村~男装美少女の恋~
第2章 もみじあおいの庭
もみじあおいの庭
けして狭くはない室に、重い沈黙が降りている。
文龍は小さく息を吸い込み、その静寂を破った。だが、言葉が後に続かない。
文龍と向かい合う形で上座に座したソクチェが訝しむような視線を向けるのが判った。
ここは申ソクチェの屋敷、当主であるソクチェの居室である。かれこれ半刻ばかり前、文龍はソクチェを訪ねてやってきた。いや、表向きはソクチェを訪問したのだが、心では、やはり恋人凛花の顔を一刻も早く見たいと逸っている。
流石に未来の舅の前で、本心をあからさまにするわけにもゆかなかった。
ソクチェは人の良い好人物で、生き馬の眼を抜くといわれる駆け引きが当たり前の朝廷での出世はけして順調ではなかった。
現に左副承旨を務めてはいるが、その立場は王命の伝達と王への報告を行う承(スン)政(ジヨン)院(イン)の長官たる都承旨の下である。承(スン)政(ジヨン)院(ウォン)自体は、王の意をまず最初に知る部署であるため、極めて重要な部署ではあったが、承旨の権限が余りにも強く、左副承旨は影の薄い存在であった。
厳密にいえば、ソクチェの立場は長官たる都承旨、更に次官左右承旨の下である。
ソクチェはもう何年もの間、この副承旨の地位におり、そのことに別段不平を言うわけでもなく淡々と任務をこなしていた。
「余計なことを訊くと思うやもしれぬが、何かあったのか?」
胸の葛藤を見透かしたかのように問われ、文龍はハッとソクチェを見た。
一人娘の凛花は、ソクチェが結婚十二年めにやっと恵まれたという。当時、ソクチェは既に三十八歳、三つ下の夫人は三十五歳になっていた。三十五歳での初産は夫人の身体に相当な負担をかけ、予定よりひと月早い出産は数日かかる難産となった。
産気づいて五日めの深夜、漸く凛花を生み落とした夫人は、ひと夜明けた翌朝に息を引き取った。
その話からすれば、ソクチェは既に五十五になっているはずだ。しかし、頭髪は見事な銀髪になっているにも拘わらず、膚は色つやも良く若々しい。仙人を彷彿とさせるたっぷりとした眉と顎髭はソクチェの浮世離れした雰囲気を更に助長させていた。
「申し訳(ハンゴン)ござい(ハオ)ません(ニダ゜)」
文龍は我に返り、慌てて詫びた。
けして狭くはない室に、重い沈黙が降りている。
文龍は小さく息を吸い込み、その静寂を破った。だが、言葉が後に続かない。
文龍と向かい合う形で上座に座したソクチェが訝しむような視線を向けるのが判った。
ここは申ソクチェの屋敷、当主であるソクチェの居室である。かれこれ半刻ばかり前、文龍はソクチェを訪ねてやってきた。いや、表向きはソクチェを訪問したのだが、心では、やはり恋人凛花の顔を一刻も早く見たいと逸っている。
流石に未来の舅の前で、本心をあからさまにするわけにもゆかなかった。
ソクチェは人の良い好人物で、生き馬の眼を抜くといわれる駆け引きが当たり前の朝廷での出世はけして順調ではなかった。
現に左副承旨を務めてはいるが、その立場は王命の伝達と王への報告を行う承(スン)政(ジヨン)院(イン)の長官たる都承旨の下である。承(スン)政(ジヨン)院(ウォン)自体は、王の意をまず最初に知る部署であるため、極めて重要な部署ではあったが、承旨の権限が余りにも強く、左副承旨は影の薄い存在であった。
厳密にいえば、ソクチェの立場は長官たる都承旨、更に次官左右承旨の下である。
ソクチェはもう何年もの間、この副承旨の地位におり、そのことに別段不平を言うわけでもなく淡々と任務をこなしていた。
「余計なことを訊くと思うやもしれぬが、何かあったのか?」
胸の葛藤を見透かしたかのように問われ、文龍はハッとソクチェを見た。
一人娘の凛花は、ソクチェが結婚十二年めにやっと恵まれたという。当時、ソクチェは既に三十八歳、三つ下の夫人は三十五歳になっていた。三十五歳での初産は夫人の身体に相当な負担をかけ、予定よりひと月早い出産は数日かかる難産となった。
産気づいて五日めの深夜、漸く凛花を生み落とした夫人は、ひと夜明けた翌朝に息を引き取った。
その話からすれば、ソクチェは既に五十五になっているはずだ。しかし、頭髪は見事な銀髪になっているにも拘わらず、膚は色つやも良く若々しい。仙人を彷彿とさせるたっぷりとした眉と顎髭はソクチェの浮世離れした雰囲気を更に助長させていた。
「申し訳(ハンゴン)ござい(ハオ)ません(ニダ゜)」
文龍は我に返り、慌てて詫びた。