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山茶花(さざんか)の咲く村~男装美少女の恋~

第2章 もみじあおいの庭

 愕くべきことに、朴直善は王宮内で通りすがりの文龍を呼び止め、事もなげに
―あの娘を譲ってくれ。
 と言ってきたという。
「私は物ではありません。そんな風に好き勝手にやり取りされたくない」
 瞳に熱いものが溢れる。
 漢陽の町で二度目に出逢ったときのあの男―朴直善の言葉がありありと耳奥にこだまする。
―私はこれまで自分の欲しいものを他に譲ったことはない。他に奪われる前に、必ず我が物にしてきた。今回もそれは例外ではない。
―私から逃げようとするな。私をけして怒らせるでない。私は欲しいものを手に入れるためには、手段を選ばぬ。
 あの男の眼。まるで魂の暗い秘密まで見通せるようだった。蛇のように底光りのする冷たいまなざしで凛花の身体を舐め回すように眺めていた。
―怖い。
 あの陰惨な雰囲気を纏いつかせた男にたとえ指一本でも触れられると考えただけで、恐怖に叫び出しそうになってしまう。
 凛花は震えが止まらなかった。
 文龍が何度も頷いた。
「当たり前だ。あの男の思うようにさせるものか。凛花は私が守る」
 文龍は片膝をつき、うつむく凛花の頬にそっと手を当てて、こちらを向かせた。
「折角の美しい顔が曇っている」
 その切迫した響きで、凛花は陰鬱な物想いから現実に引き戻された。
「そなたには笑顔が似合う。いつも笑っていてくれ」
 文龍が凛花の黒髪をひと房掬い、そっと唇に押し当てる。
 そういえば、十日ほど前に朴直善に再会した時、あの男も凛花の髪に触れたのだ。直善は髪に口づけたりはしなかった。
 それでも、ほんの少し触れられただけで、身体中が粟立ち、ヒヤリとしたものが背筋を伝った。なのに、今、文龍にこうして髪に口付けられ、優しく手で梳かれていても、むしろ幸せな気持ちになる。
 それは、やはり凛花が文龍を慕っているからだろう。
 文龍は凛花の髪をずっと撫で続けている。その手つきがあまりにも優しすぎて、凛花の堪えていた感情が爆発した。内部で堰が切れたかのように、鬱積した苦悩と怒りが涙となって一挙に溢れ出した。

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