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山茶花(さざんか)の咲く村~男装美少女の恋~

第2章 もみじあおいの庭

「やれやれ、薄情な女(ひと)だ。私は今宵を愉しみに一日千秋の想いで待ち望んでいたというのに、肝心の想い人はどうやら私と同じ心持ちではなさそうだね。これは実に憂えるべき事態だよ、凛花」
 茶目っ気たっぷりに言い、文龍は小さく肩を竦めた。
 優しい男(ひと)だ。こんな男にめぐり逢えて、これから先の長い生涯を共に歩いてゆける自分は何と幸せ者であることか。
 文龍が側にいてくれれば、他は何も要らない。凛花のすべてが、この男と共にある。
 また涙が溢れそうになるのを堪えていると、何を思ったか文龍が立ち上がり、部屋を大股に横切ってゆく。
 呆気に取られて見ている前で、彼は入り口の扉を開け、縁廊に佇んだ。凛花の部屋は申家の屋敷では奥まった一角に位置しているが、この縁廊づたいに歩いてゆけば、父の暮らす棟へと続いている。
 庭へと続く短い階(きざはし)を降りれば、部屋の前にはもみじあおいが今を盛りと咲いているはずだ。五弁の鮮やかな紅色の花びらを持つ花は、凛花のお気に入りだ。
 もっとも、正直に白状してしまえば、元々、もみじあおいが好きだったわけではない。二年前、文龍と初めて知り合った当時、彼の誕生日がもみじあおいの咲く頃だと知り、以来、好きな花の一つになったのだ。
「凛花、来てごらん」
 呼ばれて後をついてゆくと、文龍は胸の前で軽く腕を組み、空を見上げていた。
 暦がやっと十月に入ったばかりの夜は、庭から虫の音が潮騒のように聞こえてくる。
 朝夕はかなり気温が下がるが、日中はまだまだ汗ばむほどの陽気になる微妙な季節だ。
 紫紺の空には幾千の星々が銀の粉をまぶしたように煌めき、ひときわ煌々とした光を放つ満月が頭上に昇っていた。
「月が随分と近いね。手を伸ばせば、真に触れられそうだ」
 文龍は眼を細めて丸いふっくらとした月を眺めている。確かに、今夜の月はいつもにもまして、その輪郭や表面に刻まれた翳までがくっきりと際立っている。
 その時、凛花は我が眼を疑った。慌てて何度も手のひらで眼をこする。
 月が、紅かった。ほんの一瞬だけれど、赤児を宿した幸せそうな妊婦のように肥えた月が真っ赤に染まって見えたのだ。
 何度か眼をこすっては見直している中に、月は元どおり、蒸し饅頭のような色を取り戻した。

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