山茶花(さざんか)の咲く村~男装美少女の恋~
第3章 策謀
文龍は緩くかぶりを振る。どういうわけか、今夜は妙に物想いが多いようだ。雑念はいつも棄てて任務にかかるようにと上官からも厳しく言われているというのに。
文龍は微苦笑を刻み、一人で頷いた。
そうだ、凛花のためにも必ず生きて帰ってこなければならない。まだ起こりもしない未来を憂えるよりも、一つ一つを乗り越え、今日という一日を無事に過ごしてゆくことの方がよほど大事ではないか。
―凛花、私を守ってくれ。
もう一度、凛花から贈られた虎目石を撫で、文龍は素早い身のこなしで床下から這い出た。
文龍がこの殿舎の床下に潜んでいたのには理由があった。まず、ここがネタン庫に最も近く、その上、殿舎は無人で、がら空きだということ。ひそかに科人たちを待つには絶好の隠れ場所といえた。
辺りに人気は全くなかった。丁度、四半刻ほど前、見回りの内官二人が雪洞を持って殿舎の側を通ったのを確認している。今から少なくとも一刻は誰もこないだろう。
生まれたばかりの細い月が夜空に頼りなげに浮かんでいる。いや、浮かんでいるというよりも、辛うじて引っかかっているように見える。今回の任務は今まで経験してきた仕事の中でも、とりわけ危険で難しいものになることは最初から判っていた。
何しろ、時の右議政が事の首謀者なのだ。そう、右議政朴真善といえば、あの卑劣な男朴直善の父親である。才能もなくたいした働きもないのに、二十五歳の若さで刑曹参知にまでなったのは、ひとえに傑出した父親の七光りだと誰もが知っている。噂では、数年前に受けた科挙においても、彼の父親である右議政が裏で大金を積み、不正に合格させたのだと囁かれていた。
もっとも飛ぶ鳥を落とす勢いの右議政にそのようなことをあからさまに言う勇気ある者はどこにもいない。右議政やその息子が幅を利かせているのも、ひとえには、右議政の長女が中殿、つまり時の王妃であることにも関連している。
しかし、王妃は子宝に恵まれず、外孫を世子に祭り上げて、いずれは国王の外祖父として政を欲しいままにしようとした目論見は破れた。
陳貴人の死にまつわる事件の際、文龍が王妃の名を公にしなかったのは何も王妃一人の体面を考えたからではない。
文龍は微苦笑を刻み、一人で頷いた。
そうだ、凛花のためにも必ず生きて帰ってこなければならない。まだ起こりもしない未来を憂えるよりも、一つ一つを乗り越え、今日という一日を無事に過ごしてゆくことの方がよほど大事ではないか。
―凛花、私を守ってくれ。
もう一度、凛花から贈られた虎目石を撫で、文龍は素早い身のこなしで床下から這い出た。
文龍がこの殿舎の床下に潜んでいたのには理由があった。まず、ここがネタン庫に最も近く、その上、殿舎は無人で、がら空きだということ。ひそかに科人たちを待つには絶好の隠れ場所といえた。
辺りに人気は全くなかった。丁度、四半刻ほど前、見回りの内官二人が雪洞を持って殿舎の側を通ったのを確認している。今から少なくとも一刻は誰もこないだろう。
生まれたばかりの細い月が夜空に頼りなげに浮かんでいる。いや、浮かんでいるというよりも、辛うじて引っかかっているように見える。今回の任務は今まで経験してきた仕事の中でも、とりわけ危険で難しいものになることは最初から判っていた。
何しろ、時の右議政が事の首謀者なのだ。そう、右議政朴真善といえば、あの卑劣な男朴直善の父親である。才能もなくたいした働きもないのに、二十五歳の若さで刑曹参知にまでなったのは、ひとえに傑出した父親の七光りだと誰もが知っている。噂では、数年前に受けた科挙においても、彼の父親である右議政が裏で大金を積み、不正に合格させたのだと囁かれていた。
もっとも飛ぶ鳥を落とす勢いの右議政にそのようなことをあからさまに言う勇気ある者はどこにもいない。右議政やその息子が幅を利かせているのも、ひとえには、右議政の長女が中殿、つまり時の王妃であることにも関連している。
しかし、王妃は子宝に恵まれず、外孫を世子に祭り上げて、いずれは国王の外祖父として政を欲しいままにしようとした目論見は破れた。
陳貴人の死にまつわる事件の際、文龍が王妃の名を公にしなかったのは何も王妃一人の体面を考えたからではない。