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山茶花(さざんか)の咲く村~男装美少女の恋~

第1章 騒動の種

 凛花は小さな溜息を吐いた。
「あの女将だけじゃなくて、ここにいる皆が精一杯働き、生きている。なのに、両班は弱くて貧しい民を踏みにじり、一方的に彼らから取り上げようとばかりするのよね」
 凛花の眼前にひろがるのは都漢(ハ)陽(ニヤン)の賑わいであった。道の両脇に店が居並んでいる。靴屋、扇子屋、帽子屋、鶏肉屋、良い匂いのする蒸し饅頭を売る店など実に様々な店が連なっている。鶏肉屋で少しでも値切ろうとする中年の女房、靴屋で熱心に靴を選んでいる若い女、蒸し饅頭屋の前に集まっている数人の子どもたち。
 皆、それぞれの日々を、生の営みを懸命に紡いでいる。なのに、両班という特殊階級に生まれたというだけで、貴族はろくな仕事もせず身分をひけらかし、民を人とも思わない態度を取るのだ。
「―そんなのって、どこかおかしいわ」
「え? 何かおっしゃいましたか?」
 ナヨンが訊ねるのに、凛花は首を振った。
「何でもないの。今日は、もう屋敷に戻りましょう」
 心から安堵の表情を見せるナヨンと共に、凛花は人々の賑わいの中を屋敷へと向かって歩いた。

 その数日後、凛花は再び町の雑踏に紛れていた。いつものお忍び姿で、頭から外套をすっぽりと被っている。
―お嬢さまったら、本当にどうしようもない方だわ。
 ナヨンが怒り、嘆いている様が眼に浮かんできて、一瞬だけ罪の意識に駆られてしまう。
 あの後―、酒場でのひと悶着があってからというもの、ナヨンの態度が一挙に硬化してしまった。これまでは、凛花の秘密の外出には寛容で協力的ですらあったのに、
―絶対にお忍びは駄目です。
 との一点張りなのだ。
 凛花がしばしばお忍びで町に出ていることを、父の碩采(ソクチェ)は知らないわけではない。薄々察していて、大目に見ているのだ。
 元々、両班とはいえ、碩采は身分に拘る人ではなく、むしろ、拓けた思想の持ち主であった。両班が存在するのは民を守るためであって、国の基本は国王よりもまず民だと考えるような男である。むしろ、父の考えは一歩間違えれば、国王(チユサン)殿下(チヨナー)への不忠とも取られかねない危険を孕んでいた。

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