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山茶花(さざんか)の咲く村~男装美少女の恋~

第1章 騒動の種

その父の薫陶を受けた凛花もまた、現在、まかり通っている両班でなければ人にあらずといった思想には懐疑的である。だからこそ、数日前、酒場で難儀していた女将を捨て置けなかったのだ。
 が、お付きの女中にして乳姉妹(ちきようだい)でもあるナヨンは、常から女主人の正義感には手を焼いている。元々、ナヨンの母は凛花の乳母(ユモ)であった。その乳母は幼くして生母を亡くした凛花を実の娘ナヨンよりも慈しみ育ててくれたが、惜しむらくは二年前に亡くなったのだ。
 乳母は亡くなる間際までナヨンの手を握り、
―お嬢さまをお前がお守りするのですよ。
 と、言い聞かせていた。
 ナヨンは、その母のの遺言にすごぶる忠実である。いつもどこにゆくにも凛花の後に付き従い、身を挺してでも凛花を守ろうとする。
 ナヨンにとって、凛花の安全は何より優先される事柄なのだ。
 ゆえに、数日前の事件があってから、凛花がまたお忍びで出かけようとでも言い出そうものなら、物凄い形相で即座に〝駄目(アン)です(デヨ)〟と返してくる。
 こうなれば、ナヨンには申し訳ないけれど、黙って脱出を図るしかない。
 今日の午前中、凛花は自室でずっと刺繍をして過ごしてきた。むろん、その傍らでナヨンはぴったりと張りつくように繕い物をしていたのだ。これでは逃げ出す隙もないと思っていたところ、女中頭がナヨンを呼んでいるとかで、若い下働きの娘がナヨンを迎えにきた。
 幾ら乳姉妹でお嬢さま付きの女中だからといって、ナヨンもまた他の雑用をしなければならず、ただ凛花の世話だけしていれば良いわけではない。
 凛花にとって、これは千載一遇の好機となった。凛花はナヨンがほんのちょっと側を離れた隙に、そっと部屋を抜け出したのであった。
 心優しいナヨンは凛花より三つ上の二十歳、物心ついた頃から、主従というよりは姉妹のように接してきた。ナヨンが心底から凛花の無事を願ってくれているのは判っている。けれど、屋敷の奥深くに閉じこもって、日がな刺繍をしたり、書物を読んだりして刻を過ごすなんて、真っ平ご免だ。

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