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山茶花(さざんか)の咲く村~男装美少女の恋~

第5章 旅立ち

 旅立ち

 遠くから伽倻琴(カヤグム)の音色が響いてくる。あれは、別室で催されている宴で妓生がつま弾いているのだろうか。
 凛花は床についた片膝の上で両手をギュッと握りしめた。
 ここは漢陽の色町の一角、月(ウォル)華(ファ)楼(ヌ)である。今、凛花がいるのは階段を登り切ってすぐの室だ。
 いよいよ、その瞬間が来る。長いようにも、短いようにも思える時間は実にもどかしいほどゆっくりと凛花の上を通り過ぎていった。
 いや、最愛のあの男がいないこの世に、時間など存在しない。あの日、文龍が亡くなったときから、凛花の刻は止まったままだ。
 この日をどれほど待ち望んでいたか。
 文龍が突如としてこの世にいなくなって、既に一ヵ月余りが過ぎていた。
 あの日は晩秋であったのに、月日はうつろい、都では昨日、例年より数日早く初雪が降った。
 申家の庭では山茶花(さざんか)が盛りと咲き、濃いピンクの花が純白の雪を戴いている様は、冬ならではの光景を呈している。
 大切な人がいなくなっても、季節はめぐり、花は散ってもまた開く。文龍が死んでも、秋になれば、もみじあおいが申家の庭を美しく彩るのだろう。
 けれど、文龍さまがいなくなって、それが何だというの? 
 今の凛花には花の色もすべて色褪せて見える。どんなに綺麗な花でも、あの男と一緒に見るからこそ、綺麗だと思えた。あの男がいなければ、どの花が何の色をしていたって、皆同じ。
 凛花はただ、今日のことだけを考えて、文龍を失った日々を埋めてきたのだ。
 沈痛な物想いに耽っていた凛花の耳を、扉の開く音が打った。
 凛花は慌ててうつむき、伏し目がちになる。さも緊張していると見せかけるために、片手を胸に添えた。
「そなたが恵(ヘ)月(ウォル)か?」
 傍にどっかりと腰を下ろした男は早くも馴れ馴れしく凛花の手を取った。
 今、凛花は妓生〝恵月〟になり切っている。去年の秋、朴直善に無銭飲食をされた挙げ句、見世を荒らされて難儀していた酒場の女将―、あの女将に頼み込み、知り合いの妓房を紹介して貰ったのだ。

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