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山茶花(さざんか)の咲く村~男装美少女の恋~

第5章 旅立ち

た、助けてくれ。悪かった、私が悪かったのだ。ほれ、このとおり、謝る」
 直善が烈しく首を振りながら、後退る。 
 胸の傷自体は、たいしたことはなさそうである。立とうとしても立てないのは、情けなく腰が抜けたからのようだ。
「お前など、文龍さまの脚許にも及ばない。文龍さまという決まった方がいなくても、私はお前など見向きもしなかっただろう」
 凛花は静かに短剣の鞘を払った。
「心配しなくても良い。文龍さまはお前と違って、お優しい方であった。ゆえに、文龍さまに免じて苦しみを長引かせることなく、お前を冥土に送ってやる」
 次の瞬間、白刃が宙に閃いた。
 凛花に背中を向けて逃げようとした直善の上に刃が振りかぶる。
 鮮血が飛沫となり、ほとばしるように部屋中に飛び散った。自身もその返り血を浴びながら、凛花は擬然として立ち尽くしていた。
 凛花の白い頬をひと粒の涙が流れ落ちてゆく。
 文龍が死んでからというもの、初めて流した涙であった。彼女の中で止まっていた刻がゆっくりと時を刻み始めた。 
 
 その翌朝、都の外れを流れる小さな川に若い男の死体が浮かんだ。
「相当の手練れだな。ここを見てみろ、背中からばっさりとひと突きだ」
「こんな鬼神のような剣技を持つ奴には俺ァ、絶対に闇夜では出逢いたくねえや」
 捕盗庁の役人たちは、引き上げられた男の亡骸を検分しつつ、引きつった顔で囁き合った。
 この死体の身許は直に知れた。何と、亡くなったのは時の右議政朴真善の嫡子直善。
 直善は昨日の昼過ぎに屋敷を出ている。いつもなら馬か輿で仰々しく出かけていくのに、昨日に限って伴も連れず一人で出かけたらしい。出かける四半刻前に、薄汚い女の子が朴家を訪ね、
―これを朴家の若さまに渡して欲しいと頼まれた。
 と、女中に渡して帰った。

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