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山茶花(さざんか)の咲く村~男装美少女の恋~

第5章 旅立ち


 凛花―いや、今、この瞬間から、皇文龍となった彼女はふと立ち止まった。今の彼女はむろん、チマチョゴリではなくパジチョゴリを纏っている。パジチョゴリは鼠色がかったくすんだ蒼色で、少し地味な印象だ。粗末すぎるものではないが、かといって、上等というわけではない。
 長い髪は頭頂部で髷に結い、鐔広の帽子を目深に被っていた。帽子の顎の部分には連なった翡翠が繋がって垂れている。背中には振り分け荷物を背負い込んだそのいでたちは、どこから見ても下級両班の子息の旅支度といった風だ。
 感慨を込めて、ゆっくりと背後を振り返る。なだらかな弧を描く丘の上からは都が一望できる。
 まるで玩具のように小さく見える漢陽の都をひとしきり眺め降ろしながら、凛花は手近にあった石に腰を下ろした。
 都を出て既に一刻は過ぎている。この辺りになると、もう都の賑わいの片鱗もなく、丘の上は一面、大根畑がひろがるばかりであった。
 もっとも、凛花が都を発ったときは、まだ都は深い眠りの底に沈んでいて、昼間は賑やかな往来にも人気は殆どなかった。
 凛花はまだ夜が明ける前に屋敷を出たのである。
 死んだはずの文龍に成り代わり、暗行御使として旅に出る―、父に告げた時、父は流石に少し愕いたようだった。しかし、すぐに〝そうか。そなたが自分で考えて決めたのなら、思うようにしなさい〟と笑って言うにとどまった。
 幾ら理解力のある寛容な父でも、女の身であまりにも無謀すぎると止められるのは覚悟していた。あまりにあっさりと許されたので、正直、拍子抜けしてしまったほどだ。その気持ちを父に打ち明けると、父は笑った。
―止めろと言って、止めるようなそなたではないだろう。
 凛花もその言葉には一言もなかった。
 ナヨンには黙って出てゆくつもりだった。打ち明けて納得してくれるとは思えなかったし、大好きな乳姉妹に泣かれるのは辛かったからだ。
 が、荷物を背負って部屋を出た時、庭にナヨンが立っていたのだ―。

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