
激愛~たとえ実らない恋だとしても~
第1章 第一話 春に降る雪 其の壱
そのためにも与えられた仕事を確実にやり遂げてゆくことこそが大事なのだと、美空は考えていた。
そのような日々では、たった一度、しかもほんの一瞬すれ違ったにすぎない男のことなどにいつまでも囚われてばかりもいられない―はずであった。忙しない日常と日常の狭間に埋没してゆくものだと思い込んでいたが、現実は思いどおりにはいかない。
あの日、出逢った男への想いは消えることのない燠火(おきび)のように美空の奥底でくすぶり続けた。やがて、再び烈しく燃え上がる瞬間(とき)を持ちながら。
それは、とりもなおさず、美空当人は努めて忘れようとしているだけで、時折ふっと水底(みなそこ)から浮かび上がるように、あの晩秋の昼下がりの記憶が―男との出逢いが鮮やかに甦ってくる。あの日、男の上背のあるしなやかな体軀を包んでいた濃紺の目くら縞の着物や朱(あけ)の地に描かれた匂いやかな水仙の花、あの男を取り巻いていた周囲の風景の色彩の一つ一つまでもが色鮮やかに脳裡で再現される。
男の漆黒の瞳に浮かぶ謎めいた光、ゆっくりとした喋り方、仕草の一つ一つを思い出す度に、胸の奥の方が妖しくざわめいてくるのだった。
―この得体の知れぬ感情は何なのだろう。
幾ら自分に問いかけてみても、応えは返らない。美空は懸命に男のことを忘れようと努力した。
あの日の記憶や男の面影を意識的に封印しようとしてみたけれど、いつも失敗に終わった。かえって忘れよう忘れようとすればするほど、躍起になるほど、男の顔が瞼にちらつく有り様だ。
想いは蜘蛛の糸のようにひろがり、絡まるばかりだった。
だが、ゆきずりのあの男に二度と逢うことは不可能に近い。それでも、美空は町に出るときはいつも小さな巾着にわずかばかりのお足を入れ、それを懐深くにおさめていた。自分がうっかり落としてしまった櫛を買うためであり、もし万が一つにも途中であの小間物売りの男にめぐり逢うことがあればと思ってのことだった。
そのような日々では、たった一度、しかもほんの一瞬すれ違ったにすぎない男のことなどにいつまでも囚われてばかりもいられない―はずであった。忙しない日常と日常の狭間に埋没してゆくものだと思い込んでいたが、現実は思いどおりにはいかない。
あの日、出逢った男への想いは消えることのない燠火(おきび)のように美空の奥底でくすぶり続けた。やがて、再び烈しく燃え上がる瞬間(とき)を持ちながら。
それは、とりもなおさず、美空当人は努めて忘れようとしているだけで、時折ふっと水底(みなそこ)から浮かび上がるように、あの晩秋の昼下がりの記憶が―男との出逢いが鮮やかに甦ってくる。あの日、男の上背のあるしなやかな体軀を包んでいた濃紺の目くら縞の着物や朱(あけ)の地に描かれた匂いやかな水仙の花、あの男を取り巻いていた周囲の風景の色彩の一つ一つまでもが色鮮やかに脳裡で再現される。
男の漆黒の瞳に浮かぶ謎めいた光、ゆっくりとした喋り方、仕草の一つ一つを思い出す度に、胸の奥の方が妖しくざわめいてくるのだった。
―この得体の知れぬ感情は何なのだろう。
幾ら自分に問いかけてみても、応えは返らない。美空は懸命に男のことを忘れようと努力した。
あの日の記憶や男の面影を意識的に封印しようとしてみたけれど、いつも失敗に終わった。かえって忘れよう忘れようとすればするほど、躍起になるほど、男の顔が瞼にちらつく有り様だ。
想いは蜘蛛の糸のようにひろがり、絡まるばかりだった。
だが、ゆきずりのあの男に二度と逢うことは不可能に近い。それでも、美空は町に出るときはいつも小さな巾着にわずかばかりのお足を入れ、それを懐深くにおさめていた。自分がうっかり落としてしまった櫛を買うためであり、もし万が一つにも途中であの小間物売りの男にめぐり逢うことがあればと思ってのことだった。
