
激愛~たとえ実らない恋だとしても~
第1章 第一話 春に降る雪 其の壱
だが、女であるにせよ、世間で生き抜くためにもせめて文字の読み書きくらいはできなくてはと、美空は自分が内職で稼いだ金を束脩に当て、寺子屋に通ったのである。その浪人は竹中一馬といい、父とほぼ同年輩の男で、穏やかな物腰の偉丈夫だった。
いつもにこにこと笑って、怒っているところをおよそ見たこともないが、噂では剣の方は相当の遣い手らしい。妻女のお袖との間に子はおらぬせいか、夫婦共に子ども好きで長屋中ばかりか近所の子まで集めては学問を教えるのに熱心だ。
一馬は元はさる藩のれきとした藩士であったらしいが、お家騒動に巻き込まれたのが因で浪々の身となったらしい―とは、噂好きの大工の女房おきくの話だ。また別の噂によれば、好色な殿さまがお袖の美貌に眼を付け、側女に差し出せと命じたにも拘わらず、一馬が主命を拒み、お袖を連れて脱藩したのだとか。
いずれの噂も真偽のほどは定かではないが、一馬にしろ妻のお袖にしろ、そのような過去の悲哀なぞ少しも感じさせない明るさがあった。
いや、この徳平店に暮らす住人は皆、似たり寄ったりの事情を抱えている。他人(ひと)にはけして話せぬ昔、知られたくないしがらみを抱え、それでもなお、その日その日を暮らしてゆかねばならない。そんな境遇では互いに労り合いつつも、けして他人の過去は詮索しない―というのが暗黙の掟のようなものとして存在している。
美空は、この徳平店で生まれ育った。市井の底で暮らす庶民のしたたかさ、悲哀、そして労り合う優しさをその身をもって知り尽くしている。
目下のところ、表の看板を見て仕立物を頼みにきてくれる客は少ないが、それでも頼まれた仕事は一つ一つきちんとこなし、ひと針ひと針心を込めて縫い上げるようにしている。そのお陰か、先日は日本橋の紅白粉問屋の内儀が幼い二人の娘の正月用の晴れ着を注文してくれた。
この内儀も元はといえば、内儀自身の晴れ着を頼まれ、その仕上がりが良いと大いに気に入って貰えたからだ。今はまだ顧客(とくい)が少なくとも、いずれは口こみで〝徳平店に腕の良い、きちんとした仕事をするお針がいる〟と噂が広まれば、客も増えるのではないかと信じている。
いつもにこにこと笑って、怒っているところをおよそ見たこともないが、噂では剣の方は相当の遣い手らしい。妻女のお袖との間に子はおらぬせいか、夫婦共に子ども好きで長屋中ばかりか近所の子まで集めては学問を教えるのに熱心だ。
一馬は元はさる藩のれきとした藩士であったらしいが、お家騒動に巻き込まれたのが因で浪々の身となったらしい―とは、噂好きの大工の女房おきくの話だ。また別の噂によれば、好色な殿さまがお袖の美貌に眼を付け、側女に差し出せと命じたにも拘わらず、一馬が主命を拒み、お袖を連れて脱藩したのだとか。
いずれの噂も真偽のほどは定かではないが、一馬にしろ妻のお袖にしろ、そのような過去の悲哀なぞ少しも感じさせない明るさがあった。
いや、この徳平店に暮らす住人は皆、似たり寄ったりの事情を抱えている。他人(ひと)にはけして話せぬ昔、知られたくないしがらみを抱え、それでもなお、その日その日を暮らしてゆかねばならない。そんな境遇では互いに労り合いつつも、けして他人の過去は詮索しない―というのが暗黙の掟のようなものとして存在している。
美空は、この徳平店で生まれ育った。市井の底で暮らす庶民のしたたかさ、悲哀、そして労り合う優しさをその身をもって知り尽くしている。
目下のところ、表の看板を見て仕立物を頼みにきてくれる客は少ないが、それでも頼まれた仕事は一つ一つきちんとこなし、ひと針ひと針心を込めて縫い上げるようにしている。そのお陰か、先日は日本橋の紅白粉問屋の内儀が幼い二人の娘の正月用の晴れ着を注文してくれた。
この内儀も元はといえば、内儀自身の晴れ着を頼まれ、その仕上がりが良いと大いに気に入って貰えたからだ。今はまだ顧客(とくい)が少なくとも、いずれは口こみで〝徳平店に腕の良い、きちんとした仕事をするお針がいる〟と噂が広まれば、客も増えるのではないかと信じている。
