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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第1章 第一話 春に降る雪  其の壱

「櫛を―」
 美空がやや上ずった声で呟くと、男が頷いた。
「こちらでございますか」
 スと手を伸ばし慣れた手つきで櫛を取り上げると、美空に差し出してみせる。刹那、男の手の優雅な動きを追っていた美空の眼と男の眼が合った。吸い込まれそうなほどに深い光を湛えた双眸が真っすぐに美空を見つめてくる。男の差し出した櫛を受け取ろうとして差し出された美空の手がかすかに震えた。
 次の瞬間、乾いた音を立て、櫛が地面に転がった。いけない、そう思って手を伸ばしてみたけれど、櫛は地面に落ちてしまった。
「申し訳ありません、私ったら、何てことをして―」
 美空は己れのしでかしたあまりの失態に耳まで赤くなった。
「大切な商い物に傷でもついていたら大変」
 恥ずかしさに涙さえ眼に滲ませ、男に訊ねる。まさか眼の前の男に見惚(みと)れていたのだとは、いかにしても口にできるものではない。
 おろおろとする美空の前で男は落ち着いた様子で櫛を拾い上げた。
「大丈夫ですよ、割れてもいませんし、ヒビも入ってはいない」
 変わらず穏やかな物言いで美空を安心させるように言う男に、美空は真顔で首を振る。
「それでも、私がしてしまったことに変わりはありません。その櫛を買わせて頂いたら良いのですが、生憎、持ち合わせがなくて」
 と、ここまで言い、またしても羞恥に頬を染める。裏店住まいの十六歳の娘はその日を暮らしてゆくのさえやっとという有り様で、櫛や簪はむろん白粉や紅など我が身を飾る品々を買うことなぞ、およそ思いもよらない。
「よろしければ、そちらは差し上げましょう」
 予期せぬことを言われ、美空は大きな眼を見開いた。信じられないといった表情でまじまじと相手を見つめる。
 もしかして憐れまれたのかもしれないという考えがちらりと脳裡をかすめだが、眼前の男は彼の端整な容貌を照らし出す秋の終わりの陽差しそのもののような屈託ない笑みを浮かべている。
 その表情には美空に対する嘲りや憐れみのようなものは、ひとかけらも混じってはいない。
「この櫛には傷一つついてはおりませんし、売り物にならないということもございませんが、あなたがそこまでお気に入ったのなら、差し上げますよ」

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