
激愛~たとえ実らない恋だとしても~
第1章 第一話 春に降る雪 其の壱
物やわらかな声と共に、朱塗りの櫛が差し出される。朱い櫛に、白い浄らかな花が一輪、咲いている。
思わずその櫛に見入ってしまった己れを恥じるように、美空は烈しく首を振った。
「結構です、見ず知らずの方から、このような高価なものを頂くいわれはありませんから」
男の口許が綻ぶ。
「そのように気にすることはありませんよ。この品は、あなたが思っているほどの値打ち物ではないのです。私のような、しがない行商人に買うのを躊躇うような、そんな高価な品物は扱えません」
美空を馬鹿にしている風でもなく、淡々と説明する男の口調はどこまでも穏やかだ。しかし、美空はつい叫ぶように言ってしまった。
「普通の人なら、そうなのかもしれませんけれど、私にとっては、その櫛だって手が届かないような高級品なんです!!」
美空は口にした後で、ハッと我に返った。
「あの―、ごめんなさい。悪いのは櫛を落としてしまった私の方なのに、生意気な口を利いてしまいました」
すぐにカッとしてしまう、負けず嫌いの気性は亡くなった父親譲りのものだ。いつも気にして、できるだけ人前では出さないように気をつけてはいるものの、やはり、なかなか上手くはゆかない。
「その櫛は取っておいて下さいませんか? 今すぐというわけにはゆきませんが、ひと月―いえ、ふた月か三月(みつき)くらいの中には必ずお代を工面して買いにきますから」
早口で言うだけ言うと、美空は赤くなりながら逃れるようにその場を離れた。
不思議な男だった。年の頃は二十歳をわずかに過ぎたほどだろうか。しかし、その落ち着いた物腰からは老成した雰囲気が漂い、男を実年齢よりは少し上に見せているようだった。
実際には美空より、五、六歳年長なのだろう。はるか彼方で男の声が聞こえたような気がしたけれど、美空は一目散に走った。あの男とこれ以上一緒にいると、自分がどれだけ恥さらしのような真似をしてしまうか判らないと思ったからだ。
走りに走って、やっと人通りの少ない町外れまできて、初めて安堵の吐息をつく。霜月もそろそろ下旬に差しかかろうとしているこの季節、美空は額にうっすらと汗を滲ませていた。身体中が火照ったように熱いのは何も野兎のように駆けてきたからばかりではないだろう。
思わずその櫛に見入ってしまった己れを恥じるように、美空は烈しく首を振った。
「結構です、見ず知らずの方から、このような高価なものを頂くいわれはありませんから」
男の口許が綻ぶ。
「そのように気にすることはありませんよ。この品は、あなたが思っているほどの値打ち物ではないのです。私のような、しがない行商人に買うのを躊躇うような、そんな高価な品物は扱えません」
美空を馬鹿にしている風でもなく、淡々と説明する男の口調はどこまでも穏やかだ。しかし、美空はつい叫ぶように言ってしまった。
「普通の人なら、そうなのかもしれませんけれど、私にとっては、その櫛だって手が届かないような高級品なんです!!」
美空は口にした後で、ハッと我に返った。
「あの―、ごめんなさい。悪いのは櫛を落としてしまった私の方なのに、生意気な口を利いてしまいました」
すぐにカッとしてしまう、負けず嫌いの気性は亡くなった父親譲りのものだ。いつも気にして、できるだけ人前では出さないように気をつけてはいるものの、やはり、なかなか上手くはゆかない。
「その櫛は取っておいて下さいませんか? 今すぐというわけにはゆきませんが、ひと月―いえ、ふた月か三月(みつき)くらいの中には必ずお代を工面して買いにきますから」
早口で言うだけ言うと、美空は赤くなりながら逃れるようにその場を離れた。
不思議な男だった。年の頃は二十歳をわずかに過ぎたほどだろうか。しかし、その落ち着いた物腰からは老成した雰囲気が漂い、男を実年齢よりは少し上に見せているようだった。
実際には美空より、五、六歳年長なのだろう。はるか彼方で男の声が聞こえたような気がしたけれど、美空は一目散に走った。あの男とこれ以上一緒にいると、自分がどれだけ恥さらしのような真似をしてしまうか判らないと思ったからだ。
走りに走って、やっと人通りの少ない町外れまできて、初めて安堵の吐息をつく。霜月もそろそろ下旬に差しかかろうとしているこの季節、美空は額にうっすらと汗を滲ませていた。身体中が火照ったように熱いのは何も野兎のように駆けてきたからばかりではないだろう。
