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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第11章 第三話〝花笑み~はなえみ~〟・其の参

「これは―万葉集ではないか」
 改めてめくってみると、どの部分にも万葉集の和歌が書き綴られている。どうやら、これは孝俊自身が写筆したもののようであった。かなり年月を経たものらしく、繰り返し愛読したことが判るほど使い込まれている。
 迂闊にも、表に題名が記されていなかったゆえ、これが万葉集の写本であることに気付かなかったのだ。
 美空が意味もなくその書物を手にしていると、智島が意外なことを言った。
美空のおらぬ間、孝俊がずっと愛蔵の万葉集を読みふけっていたというのである。
 智島は静かな声で語った。
「殿はずっとご簾中さまをお待ちにございました。ご家老の碓井さまを初めとされるご重臣方は皆、殿がご簾中さまには甘い、あまりに手ぬるいとご立腹しておいでにございましたが、殿は終始、ご簾中さまをご重臣方からの批判からお庇いになっておられました」
 家老碓井は黙って屋敷を出奔した美空を隠密を放ち、始末―つまり斬れと孝俊に勧めた。元々、町人、しかも職人の娘である賤しい身分の美空を、この謹厳な碓井はご簾中として認めてはいなかった。
 仮にも尾張徳川五十万石の藩主の妻という立場にありながら、人知れず失踪するとは、あまりにも自覚がなさすぎる。尾張家の恥であると、碓井は激昂していた。
 しかし、孝俊は碓井や重臣たちの言上に頑として首を縦に振らなかった。思慮深い美空が孝俊にでさえ黙って屋敷を出たのは、よほどの事情があるはずだと美空を庇い、最後まで信じていた。
 むろん、孝俊自身には美空の出奔の原因に心当たりがあった。恐らくは、将軍継職についての口論が直接の理由なのだと見当をつけながらも、いつか美空が自分から帰ってくることを信じて待ち続けていた。
「殿はずっとご簾中さまを信じていらっしゃいましたが、去年の秋頃でございましょうか、浪速屋なる人物の存在が浮上したのでございます」
 智島は、外聞をはばかってか、低い声で続けた。

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