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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第3章 其の参

 それでなくても、美空の手にはひび割れやアカギレがたくさんできている。美空がかじかんだ手に息を吹きかけ少しでも温かさを取り戻そうとしていると、頭上から声が降ってきた。
「精がでるね、美空ちゃん」
 大工の兵吉(へいきち)の女房お民が太り肉(じし)の身体を重たげに揺すりながら傍らにしゃがみ込んだ。
 と、突然、烈しい吐き気が美空を襲った。
 苦いものが胃の腑の底からせり上げてくるようで、美空は片手で口許を押さえ、その場に蹲る。
 お民はコホコホと咳き込む美空の顔を気遣わしげに覗き込み、その背をさすってくれた。長屋に住まう女たちは皆一様に世話好きの傾向があるが、その中でもお民は滅法人が好い。
 亭主の兵吉は腕の良い大工で、暇さえあれば喧嘩をしているような二人だが、実のところはとても仲の良い夫婦だ。惜しむらくは、たった一人の倅を三年前に事故で失ってしまったことだろう。
 お民の一人息子兵助は五つの年、近くの川辺で遊んでいる最中、誤って川に落ちて溺死した。
 お民に似ず、色白の整った面立ちの兵助は、お民の自慢の倅であった。倅を失った当座は泣き暮らしていたお民だが、今は気丈にも哀しみの淵から這い上がり、雄々しく生きている。兵助を失って以来、お民は以前にもまして面倒見が良くなった。
「大丈夫かえ?」
 お民は心配そうに訊ねながらも、その顔には躊躇いの表情を浮かべていた。
「ねえ、こんなことを言って、間違ってたら申し訳ないけれど、もしかしたら、美空ちゃん、おめでたなんじゃないかい?」
 遠慮がちに言われ、美空はまだ咳き込みながら頷く。
「私ももしかしたらって思ってたんですけど、本当にそうなんでしょうか?」
 頑固な吐き気はもうかれこれ半月ほど前から、美空を悩ませている。
 最初は胃の具合が悪いのかと思っていたのだけれど、あまりに続くゆえ、心配になった矢先、ふと月のものが遅れていることに気付いたのだ。
 しかし、正月早々、孝太郎と祝言を挙げ新しい生活を始めたばかりで、環境の激変によって月のものが多少遅れることはままある。自分でも判断がつかず、かといって、医者にいくのも恥ずかしくてと思っている中に今日まできてしまったのである。

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