
激愛~たとえ実らない恋だとしても~
第5章 第二話〝烏瓜(からすうり)〟・其の壱
《其の壱》
庭の樹から降るように聞こえてくる蜩の声が何となく忙しない。それでも、真夏を思わせる容赦ない太陽の光にも拘わらず、ふとした拍子に秋の気配を感じることが多くなってきた。
季節は、いつもそうやって唐突に変わる。いや、本当は人間が気付かない間に季節のうつろいは徐々に、非常にゆっくりと進んでいるのだけれど、普段は煩雑な日常に心囚われた人々は自然に気を払うゆとりがない。ゆえに、ふっと改めて周囲を見回し、季のうつろいに気付かされた時、人はある日突然に季節が移り変わったような錯覚に囚われるのだ。
美空は小さな溜息を一つ零し、慌てて周りを見回す。今の吐息を誰にも気付かれなかったか。見られてはいなかったか。
幸いなことに、長く伸びた廊下には人影もなく、美空が吐息を洩らしたところを見た者は誰もいなかった。そのことに改めて軽い安堵を憶えながら、美空はまた、そっと息をつく。何故、こうも毎日、それも日がな、他人の眼ばかりを気にして過ごさねばならないのだろうか。
こんな窮屈な生活を強いられるとは想像もしていなかった―というのが正直な気持ちだ。江戸の外れの裏店で生まれ育った我が身がある日を境に一躍、尾張藩主の御簾中へ―、そのような運命の激変を一体誰が考え得ただろう。こうしてきらびやかな打掛を身に纏い、豪奢な調度に取り囲まれ、大きな屋敷に暮らしている今でさえ、美空は我が身に起こっていることが現のことにも思えない。
眼が醒めれば、そこは見慣れた長屋で、隣には良人孝太郎が眠っていて、良人はありふれた小間物屋で、いつも大きな荷を背負って江戸の町を歩いているはずだった。
そう、美空が惚れたのは小間物屋の行商人、ただの孝太郎であったはず。それが、まさか良人が尾張藩主であったとは。美空がいまだに悪い夢を見ているのだとしか思えなくても、致し方ない。
孝太郎から己れの正体と身分を告げられ、付いてきて欲しいと言われ、一度は彼との別離を覚悟したのだ。だが、できなかった。孝太郎を愛してしまった美空は、彼が一介の小間物屋であろうと、お殿さまであろうと、彼から離れて生きてゆくことはできなかった。だからこそ、孝太郎に付いてゆく決意を固め、江戸の尾張藩邸に入ることになったのだ。
庭の樹から降るように聞こえてくる蜩の声が何となく忙しない。それでも、真夏を思わせる容赦ない太陽の光にも拘わらず、ふとした拍子に秋の気配を感じることが多くなってきた。
季節は、いつもそうやって唐突に変わる。いや、本当は人間が気付かない間に季節のうつろいは徐々に、非常にゆっくりと進んでいるのだけれど、普段は煩雑な日常に心囚われた人々は自然に気を払うゆとりがない。ゆえに、ふっと改めて周囲を見回し、季のうつろいに気付かされた時、人はある日突然に季節が移り変わったような錯覚に囚われるのだ。
美空は小さな溜息を一つ零し、慌てて周りを見回す。今の吐息を誰にも気付かれなかったか。見られてはいなかったか。
幸いなことに、長く伸びた廊下には人影もなく、美空が吐息を洩らしたところを見た者は誰もいなかった。そのことに改めて軽い安堵を憶えながら、美空はまた、そっと息をつく。何故、こうも毎日、それも日がな、他人の眼ばかりを気にして過ごさねばならないのだろうか。
こんな窮屈な生活を強いられるとは想像もしていなかった―というのが正直な気持ちだ。江戸の外れの裏店で生まれ育った我が身がある日を境に一躍、尾張藩主の御簾中へ―、そのような運命の激変を一体誰が考え得ただろう。こうしてきらびやかな打掛を身に纏い、豪奢な調度に取り囲まれ、大きな屋敷に暮らしている今でさえ、美空は我が身に起こっていることが現のことにも思えない。
眼が醒めれば、そこは見慣れた長屋で、隣には良人孝太郎が眠っていて、良人はありふれた小間物屋で、いつも大きな荷を背負って江戸の町を歩いているはずだった。
そう、美空が惚れたのは小間物屋の行商人、ただの孝太郎であったはず。それが、まさか良人が尾張藩主であったとは。美空がいまだに悪い夢を見ているのだとしか思えなくても、致し方ない。
孝太郎から己れの正体と身分を告げられ、付いてきて欲しいと言われ、一度は彼との別離を覚悟したのだ。だが、できなかった。孝太郎を愛してしまった美空は、彼が一介の小間物屋であろうと、お殿さまであろうと、彼から離れて生きてゆくことはできなかった。だからこそ、孝太郎に付いてゆく決意を固め、江戸の尾張藩邸に入ることになったのだ。
