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変人を好きになりました

第1章 卵焼き

 風呂は各部屋についているし、私がお風呂に入ったからと言ってこの部屋に分かるような変化はないはずだ。
 それなのに、私がさっきまでお風呂につかりながら読書をしていたことを見抜かれてしまった。
 こちらを一度も振り返っていない人に。
「今回は簡単だ。古都さんは今、化粧をしていないのに頬が桃色でしかも唇が潤っている。ファンデーションなしにチークを塗るとは考えにくいし、いつも使っているリップの香りもしない。考えられるのはひとつしかない」
「でも、ランニングしてきたのかも。いつもと違う無臭のリップをつけて」
 男は呆れたように首を横に振った。ぼさぼさの黒髪が揺れる。
「こんな雨の寒い日にランニングに行く人はほとんどいない。古都さんの唇は敏感ですぐに口唇炎を起こすから慣れているリップしか使わない」
 その通りだ。
 言い返す言葉をなくしかけた。
「あれ。でも、黒滝さんまだ一度も私の方を向いてないのにどうして私の顔が見えたんです?」
 やっぱり後ろにも目が……?
 黒滝さんは無言で机の上に置いてある銀色の缶を指さした。
 近づいてよく見てみるとピカピカに磨き上げられた缶の表面に部屋全体と覗き込む私の顔がはっきり色鮮やかに映っていた。
 なんだ。そういうことか。
「なんだ。そういうことか」
「えっ」
 急に心の声を音読されて私は飛び上がった。
「顔に出過ぎだ」
 そう言いながら手を止めて椅子をくるりと回転させ、私のほうを向いた。
 真っ白い肌をした綺麗な顔が突然現れて私はびくりとした。
 何度見ても慣れない。この人形のような造形美。
 鼻筋の通ったすらりとした鼻に切れ目がちな黒い瞳、それに形のよい唇。
 完璧な輪郭を隠すような伸び放題の黒髪。
「腹が減った。タンパク質を摂取したい」
 彼はそう言いながらテーブルに行き、手づかみで卵焼きをむさぼり始めた。
 まるで綺麗な野蛮人だ。
「で、今回は何の研究なんですか?」
「ん」
 黒滝さんはごくりと喉をならして卵焼きをお茶で流し込むと私の方を見向きもせずにもごもご喋りはじめた。

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