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初の恋、終の愛

第2章 諦めと夢

「ゆずさーーーーん!」
 私の名前を大声で呼ぶ声に叩き起こされる。
 その声をきくたびがっかりしてしまう。ああ、まだ夢が覚めていないんだと。
 扇田屋というのは本当に大きなお店でしっかりした造りの広い店と、店の奥が家になっていて、そのまた奥に若だんなと呼ばれる幹太郎の暮らす建物があった。
 扇田屋の奥さんも旦那さんもすごく気さくで優しく、驚くほどおおらかだった。そして、そのおかげと言うべきがそのせいだというべきか分からないが、とにかく若だんなの家に住まわせてもらっている。
「朝餉の用意をするためには、早く起きなくてはなりませんとあれほど言ったのに……」
 女中頭のおみつさんが今日も目くじらを立てて部屋に入ってきた。
「ひいっ」
「ひいっじゃありませんよ。さっさと起きてください。食の細い若だんなが柚子さんの作るものはしっかり食べるんですから、旦那様も奥様もそれはそれは大いに期待なさって」
(ああ。また始まったよ。奉公人ってこんなに主人一家への愛情が深いものなのかな)
 毎日若だんなを褒めちぎっては、奥さんと旦那さんの運命的な出会いと二人がどれだけ優れた人格者かを力説される。こちらとしては拷問に近い。
「おみつさん。柚子さんをそんなにこき使わないでおくれよ」
 部屋の外から穏やかな声がする。若だんなだ。
「若だんな。こんな早くに起きられては母上様が心配なさります。掛け布団が好ましくないのならすぐに別のものを持って参りましょう」
「朝から大きな声で叫ばれては誰だって起きてしまいますね。柚子さんも、おみつに手間をかけさせずにさっさと起きてほしいものですね」
 横から入ってきた辰五郎さんの言葉にはいちいち棘がある。
 この屋敷にいる人は皆、若だんなのことを何よりも大事にしているようだった。
 雨が降れば若だんなをすぐに部屋の奥に放り投げ、若だんなが咳でもしようものならすぐに外出を禁じて部屋に閉じ込めてしまう。なによりも若だんななのだ。
 私はさっさと起きて、廊下で辰五郎の言いぐさをやめるように説得している若だんなの脇を通り過ぎて台所へ向かった。
「こんなところで料理の腕が役立つなんてなあ」
 ここが江戸時代というのは信じがたかった。けれども屋敷はどう見ても現代日本ではなかったし、人も皆着物を着て髪をありえない形状にセットしているのを見るとどうも本当らしい。

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