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紫陽花(オルテンシア)~檻の中の花嫁~

第1章 炎と情熱の章①

 それも、いきなり、初対面(むろん、向こうは一社員の美月を知らずとも、こっちは社長の顔くらい遠目に見たことがある)の女に〝結婚してくれ〟でもなく〝結婚したまえ〟ときた!!
 馬鹿馬鹿しい。ハレムでスルタンが女奴隷に側妾になれと命令するのとは訳が違うのだ。やはり、時代錯誤もはなはだしいこのお馬鹿な男には、あの早百合がお似合いかもしれない。
「お断りします」
 もちろん、美月は丁重に、きっぱりと断ってやる。
「君―」
 何か言いたそうな社長に、美月は丁寧だけれども、容赦のない言葉で言った。
「折角のお言葉ですが、私は社長のことを何も存じ上げておりません。もしかして、私とどなたかをお間違えになったのではないでしょうか」
 人違い―、もし、眼前の男が本当に狂っているのでないとすれば、いちばん考えられるのは、これだった。要するに、美月を誰か別の女と間違えたのではないか、ということだ。
 しかし、〝ゴージャスな女〟しか相手にしないと評判の社長がひとめ見て美月を尋ね人だと思い込むはずがないのである。
 ほんの一瞬、空白が生まれる。次の瞬間、響いてきたのは社長の朗らかな笑い声だった。
「いや、勘違いしないで欲しいんだ」
 社長は首を少し傾け、それからおもむろに座っていたデスクの引き出しを開けた。
 十階の社長室の背後は全面ガラス張りで、陰鬱な鉛色の梅雨空がひろがっている。朝、家を出るときは蒼空がかいま見えていたのにと、美月は、虚ろな頭でぼんやりと考えていた。
 美月の瞼に、海色の紫陽花が鮮やかに浮かび上がる。去年亡くなった老婦人が我が子のように愛おしんで大切に育てていた花だ。
「これを君に進呈しよう」
 いきなり眼の前に突き出されたのは、一枚の薄っぺらな紙切れだった。
 美月が見るともなしに見つめていると、社長が口許を歪める。
―ふうん、こんな表情もするんだ。

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