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紫陽花(オルテンシア)~檻の中の花嫁~

第6章 光と陽だまりの章③

 美月がお腹の子を生もうかどうしようかと躊躇していた時、晃司はそう力強く言って、美月を励まし背を優しく押してくれた。
 あのひと言が、美月を〝母〟にしてくれたのだともいえる。
「い、いやーっ」
 美月は猛然と暴れた。何としてでも、勇一の許に帰るのだ。今度ばかりは絶対にこの男の言いなりにはならない。勇一を裏切るようなことだけはしたくない。
 その一心で晃司から逃れようと烈しい抵抗を始めたのだ。
「誰か、来てっ。助けてぇ」
 叫び助けを求める美月の口に布が押し込まれる。
「フン、手間をかけさせる。あれだけ膚を合わせ身体を重ねて少しは気持ちがほぐれたと思っていたのに、俺の眼を盗んでまんまと逃げ出すとは、全く強情な」
 彼の中で、度し難い怒りが渦巻く。
 美月が部屋に置いてあった果物ナイフで自らの手首をかき切ったあの日、晃司は眠っている美月を一人残して、一旦は部屋を出た。
 彼を神のように崇めている有能で忠実な秘書に居場所を知らせるためだった。
 何の連絡もよこさないまま、続けて三日にも渡って会社に顔をみせなかったことはない。いつもは、取り澄ましたほど落ち着き払っているあの秘書――額田晴臣がさぞかし慌てふためいているだろうと思い、とにかくメールだけでも入れておこうと本館ロビーまで出向いたのだ。
 額田は、どんなときでも顔色一つ変えることがない。晃司でさえ、あの男の取り乱した様を一度は見てみたいと思う始末だ。全く憎らしいほどに物事に動転することがない。もっとも、秘書としては彼のその資質は最適ともいえるが。
 むろん、メールは部屋にいても送ることはできるが、女将に逢って何か滋養のある食べ物を美月のために作らせ、部屋まで届けるように頼むつもりであった。
 すべての目的を果たして部屋に戻ってきて、血の海に倒れ伏している美月を目の当たりにしたときは、流石に我が眼を疑った。自殺未遂を起こす直前―その日の朝、美月は晃司の手から、皮をむぎ切り分けてやった林檎を食べたのだ。
 緋色の長襦袢を肩に羽織ったまま前を合わせることもせず、しどけない姿で座り込んだ美月は限りなく淫らでなまめかしかった。

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