テキストサイズ

紫陽花(オルテンシア)~檻の中の花嫁~

第6章 光と陽だまりの章③

 ならば、やはり、あの公園で美月が考えたように、梅芳と出逢うために美月と晃司の出逢いも予め決められたものだったのだろう。梅芳という子を授かるために。
 美月の脳裡に、めざめる前に夢の中で束の間、腕に抱いた女の子の顔が浮かぶ。
―ママ、約束よ。私が帰ってくるまで、きっと待っててね。
 ええ、梅芳ちゃん。ママは、けして忘れるものですか。あなたが帰ってくる日をずっと、ずっと待つわ。
 心の中で、あの子に応える。
 美月の眼に、初めて澄んだ涙が溢れた。


 美月が運び込まれた病院で意識を取り戻した翌朝、〝K&G〟ホールディングスの社長室にもその旨が報告されていた。
 スーツを隙なく着こなした三十代後半の秘書は、まるで感情をどこかに置き忘れてしまったアンドロイドのように見える。平坦な口調で淡々と届いたばかりの調査書を読み上げていた。
「―というわけで、昨日の早朝、速見美月は五日ぶりに意識を回復、目下のところ、特に目立った後遺症は見られないとのことです。この程度で済んだのは、あれほどの大事故にしては奇蹟的だと。なお、怪我の程度は全治三ヵ月の重傷、残念ながら、お子さまは流産、胎児は妊娠五ヵ月、女のお子さまだったという報告が届いております。後は、それから―」
 なおも続けようとする秘書に〝もう良い〟と、晃司は片手を上げて制した。
「私が知りたかったことは、それで十分だ。額田、これを速見美月に郵送しておいてくれ」
 晃司が重厚な紫檀の机の引き出しから一枚の封書を取り出し、おもむろに差し出す。
 オールバックに銀縁メガネの秘書は恭しくその封書を受け取った。
「これは―」
 珍しく興味を露わにした秘書に、晃司は軽く肩をすくめた。
「離婚届だ。今日中に速達で送っておいてくれ」
「よろしいのですか?」
 いつも沈着で、晃司のすることにおよそ口出しをせぬ男が今日はいつになく感情を露わにしようとする。
「君は余計なことを考える必要はない」
 晃司は取りつくしまもなく切り捨てると、秘書に背を向けた。机の後ろは、全面がガラス張りだ。晃司は窓際に佇み、眼下にひろがる街の風景に眼を向けているようだった。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ