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紫陽花(オルテンシア)~檻の中の花嫁~

第1章 炎と情熱の章①

 後で判ったことではあるが、女性はいつものように夜、床についてほどなく急な心臓発作に見舞われ、そのまま事切れたらしい。眠りながらの大往生で、殆ど苦しみらしい苦しみはなく逝ったと聞き、美月は心のどこかでホッとしたものだった。あの穏やかな老婦人には、そんな穏やかな最期こそふさわしいように思えた。
 かつて彼女が愛した庭では、彼女が亡くなって一年が経過した今も紫陽花が盛りと花開いている。鬱陶しい梅雨の晴れ間に、海色の紫陽花が眼もさめるような鮮やかな花を誇らしげに咲かせていた。
 低いブロック塀越しにかいま見える紫陽花をひとしきり眺め、美月はその一瞬だけ軽やかな気分になった。そして、慌てて左腕の時計に眼をやった。
「―いけない!」
 このままでは、次の電車にも間に合わなくなってしまうことに改めて気付き、慌てて走り出した。
 それにしても、何もかもが信じられないと思う。二年前には、今、美月が一人で暮らす家には父がいて母がいて、ごく当たり前の家庭がそこにあった。父は働き盛りの五十代半ばで、K町の中心部にある小さな町工場の工場長をしていた。
 父の工場は大手のアパレル・メーカーの下請けをやっていて、子ども服の縫製を主に請け負っていた。その父の工場の経営が思わしくなく、とうとう立ちゆかなくなったのは三年前のこと、原因はこれまで取り引きしていたアパレル・メーカーから突然、仕事の依頼を止められたことだった。
 父に何の落ち度があったわけではない。取り引き先の会社そのものが経営難で、まずは人員削減、経営を縮小する方針になったからだ。あまつさえ、人の好かった父は、知人の借金の肩代わりをする羽目に陥った。連帯保証人―、金を借りた当事者が返済できない場合は代わりに金を返す義務を全うしなければならない。
 父にすべての責任を押しつけて失踪したのは、父の中学時代の同級生だという男だ。後に、この男は山中で首つり自殺をしているのを警察に発見された。

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