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紫陽花(オルテンシア)~檻の中の花嫁~

第3章 炎と情熱の章③

 その時、美月は思ったものだ。もし、この男を自分が愛することができたら、どんなにか良いだろう。
 でも、美月にはそれができないのだ。何故なのかは判らないけれど、恐らく美月が晃司を愛することはあり得ない。もしかしたら、出逢い方が悪かったのかもしれない。もっと違う出逢い方をしていれば、あるいは自分はあの男を好きになっただろうか。
 美月が心を開き、靡くようになれば、晃司は多分、美月を今よりは大切に―少なくとも人間らしく扱ってはくれるだろう。
 だけど、美月にはできない。晃司に何度抱かれ、膚を合わせて、身体だけは快楽を感じるようになってしまっても、晃司の巧みな愛撫にどんなに甘い喘ぎ声を上げるようになったとしても、いつも心だけはしんと冷えて、醒めた眼で自分を抱く男を冷ややかに見ている。
 第一、晃司が時にふっと気紛れのように優しさを見せたとしても、美月を欲望のままに犯すのに変わりはない。そんな男を、どうして心から信頼し、愛せるだろうか。
 正直、愛することのできない男に抱かれ続けるのは苦痛でしかない。たとえ身体はどれほど悦ぼうと、美月の心が満たされることはないのだ。
 美月は無意識のうちに、果物ナイフを手に取った。庭に面した障子越しに差し込んでくる陽光を受けて、小さなナイフが鈍いきらめきを放つ。鋭利な刃をそっと左手首に添わせ、力をほんの少しだけ込める。
 溢れ出した鮮やかな血を、美月はまるで他人事のように茫然と眺めていた。
 次第に薄れてゆく意識の中で、美月の脳裡に深い海色に染まった紫陽花の花が一瞬、浮かんで消えた。
 自分には、もうあのたおやかでいながら凜とした老婦人のように生きることはできないし、また、生きる資格もないのだ。そう思うと、どうしてだか、無性に哀しかった。

 手首をナイフで切って自殺未遂を図った美月は、ほどなく部屋に戻ってきた晃司によって発見される。美月の身柄はすぐに救急車でふもとの町の病院まで搬送された。とはいえ、このことが表沙汰、ひいては新聞や週刊誌ネタになっては困るため、救急車はサイレンを消して、人知れず美月を乗せてひた走った。

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