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紫陽花(オルテンシア)~檻の中の花嫁~

第1章 炎と情熱の章①

 美月は不承不承、立ち上がった。
―私の貴重な昼休みを返してッ。
 と、眼の前の嫌味たっぷりな男に向かって怒鳴ってやりたいのを堪えながら。
 向こうのデスクでは実由里がおどけたように肩をすくめている。何を隠そう、実由里もまた、こういう類の男は敬遠するタイプなのだ。
 いくら御曹司だか若社長だか知らないが、気障ったらしい優男はご免なのである。
 こんな時、まず思いつくのが何か自分が不祥事をしでかしたのか、ということだろう。美月は若社長の後について磨き抜かれた廊下を歩きながら、頭の中でここ最近、自分が犯してしまった失敗やミスといったものを一つ一つ順に数え上げていった。
 が、やはり、社長室に呼ばれて、社長直々に訓戒を受けるほど重大な過ちは犯していないという結論に達する。
「社長、お話とは一体―」
 こんな男に媚びへつらうのは反吐が出そうだったけれど、哀しいかな、宮仕えの身では、たとえ上司が―しかも相手が社長ともなれば―どんなに虫の好かない奴だったとしても、下手に出なければならない。
 借金の返済はいまもって延々と続き、今のままでは、五年後どころか十年後になっても片が付く目途はない。今ここで、この会社から三下り半をつきつけられた日には、今度は、美月自身が首をくくることにもなりかねないだろう。
 いつだったか、後輩の女の子が意味ありげな顔で、
―速見先輩もあたしみたいに夜のバイトすれば良いのにィ。良かったら、あたしがお店のママに口きいて上げますよォ。
 と、それが特徴の舌っ足らずな口調で言っていたのを、美月はぼんやりと思い出した。
 鼻にかかった甘えた口調がいちいち癇に障る早百合は、二年下の後輩、つまり一昨年に入社してきた。若い社員の間では〝松浦亜弥もしくは上戸彩〟に似ていると評判だそうだが、眼の前の若社長が嫌いなのと同等の理由で、美月はひそかに敬遠している。
 どうやら、早百合はK駅の前のビルに入っているバーかスナックでホステスのバイトをしているらしいのだが、あろうことか、美月にまでそのバイトを勧めてきたのである!

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