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紫陽花(オルテンシア)~檻の中の花嫁~

第4章 光と陽だまりの章

 その時、静まり返った空間に、カチリという小さな音が響いた。ドア・ノブの動く音だ。
 勇一が帰ってきた! 
 美月は心から安堵した。勇気を振り絞り、隣室に聞こえるように声を張り上げた。
「お帰りなさい」
 ―でも、彼からの返事は返ってこなかった。

 更にそれから一ヵ月が経った。
 アパートの前の細い道端にも、可憐な秋桜が咲き、時折、風に揺れている。
 その日は、美月の二十六歳のバースデーだった。ひと月前にひとたびは気まずくなったものの、勇一との関係は特に変わることもなく、日々は平穏に流れている。
 季節はうろつい、もう晩秋と呼べる季節になった。朝晩は、ぐっと冷え込む日があり、冬の到来が近いことを予感させる。美月が勇一のために編んだセーターが活躍する季節になったのだ。
 十一月をもう数日後に控えたその日、二人は夕方から車で出かけた。勇一はまだ車を持っていない。同じガソリンスタンドに勤める年上の友人から特別に借りた白いセダンを勇一が運転し、美月はその隣の助手席におさまった。
 勇一が美月を連れていったのは、郊外の落ち着いた雰囲気のレストランである。
 閑静な住宅街の中に、まるで秘密の隠れ家のように一軒だけ紛れて建つ瀟洒なレストランだった。
 その辺りは、何とはなしに、かつて美月が少女時代を過ごした場所と雰囲気が似ていた。レストランの窓からは、枯山水風の和風庭園を一望に見渡せる。ライトアップされた庭園が蒼白い光の中、ぼんやりと浮かび上がっている情景は、何とも幻想的に見えた。
 その庭園を眺めながら、ゆったりとステーキ・ディナーを愉しむという趣向のようだ。
 今夜だけは、普段は着るものに頓着しない美月もお洒落してきた。黒いニットのワンピースにジルコンのネックレスをつけ、長い髪はふんわりとカールさせている。耳には、ネックレスとお揃いの滴型のイヤリングが揺れていた。
 ワンピースもアクセサリーも、翻訳の仕事で得たなけなしの金で買った。殊にイヤリングは、幼い頃に憧れた人魚姫の涙を思わせる繊細なデザインで、光が当たる角度によってキラキラときらめいて、夢のように美しい。けして高価な品ではないが、美月の趣味の良さを窺わせ、彼女の本来持つ可憐な雰囲気を引き立てるのに成功していた。

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