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紫陽花(オルテンシア)~檻の中の花嫁~

第4章 光と陽だまりの章

 対する勇一は白のタートルネックのシャツにモノトーンのツイードのジャケット、黒のスラックスで決めていた。
 二日前が給料日だったという勇一は、屈託がなかった。いつもよりはむしろ朗らかで、よく喋り、食べた。
「給料とバイト料と両方一度に入ってきたからさ、たまにはこんな店で食事っていうのも良いかなと思って」
 だが、美月は実は、食事どころではなかった。数日前から、体調が思わしくないのだ。どうやら胃の調子を壊してしまったらしく、何か食べようとすると、吐き気がして戻してしまいそうになる。
 一日中ムカムカして気分が悪く、水を飲んでも吐いてしまうのだ。当然、豪勢なステーキ・ディナーどころではなかった。
 今日は、勇一が美月のために連れてきてくれたのだ。しかも、車まで借りて。とても気分が悪くて食べられない、行けそうにもないとは言い出せなかった。
 しかし、こんなことならば、やはり事前にちゃんと本当のことを話して計画を延期して貰うべきだったかもしれない。
 美月は後悔していたが、もう、あとのまつりだ。
「それにしても、大家さんには参ったよな」
 勇一が笑いながら言う。
 アパートの大家白石さんは内科医をしていて、アパートからもほど近い一戸建てに住み、自宅で開業している。もうかれこれ六十歳近い、上品なロマンス・グレーの紳士だ。
 白石さんの家には、白石さん自身が拾ってきた犬や猫が十匹近くもいて、奥さんは毎日、その世話に奔走しているという。
 その大家さんが何をどう勘違いしたのか、昨日の朝ふいに訪ねてきて、分厚い金封を置いていったのだ。封筒には紅白の熨斗がかかっていて、上書きには〝祝御結婚 白石〟と達筆で書かれていた。
 美月は白石さんが帰った後、カレンダーを見てやっと悟った。
 その日は何と大安だった! 
 白石さんは、ふた月前に突如として現れ、このアパートに転がり込んだ美月を勇一の〝押しかけ女房〟と思い込んでいるのだ。
 いや、白石さんだけではなく、他の住人たちも皆、美月と勇一が夫婦だと勘違いしている。―そのことに薄々気付かない美月ではなかった。

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