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紫陽花(オルテンシア)~檻の中の花嫁~

第5章 光と陽だまりの章②

 母は毅然として、そう言い切った。
 その後、勇一の父が母の両親を直接訪ねてきて、土下座までして〝お嬢さんを僕に下さい〟と頼み込んだ。娘を真摯に想う男の姿を目の当たりにして初めて、祖父母は心を動かし、二人の結婚を認めたという。
「美月さんと俺の母親とは、事情は違う。でも、美月さん。俺が自分で言うのも変だけどさ、お袋のその話を聞いた時、俺はお袋のことをとても強い女性だと思ったんだ。そんなにしてまで姉の―我が子の生命を守り抜こうとしたお袋を誇りに思ったよ」
 勇一は、話の終わりにそう言った。
―お腹の子の人生は誰のものでもない、この子自身のものなんです。
 勇一の母の言葉は、美月の心を強く揺さぶった。だとすれば、美月が今、考えていることは、どれだけ罪深く怖ろしいことだろう!
 美月は天の神でも神仏でもない。いや、恐らく―、神や仏でさえも生まれこようとしている小さな生命をむやみに奪うことは許されないのだ。
 勇一が再びゆっくりと歩き出す。この一週間、病院で処方された薬を服用するようになってからというもの、美月の体調は大分落ち着いていた。あれほど烈しかった嘔吐感も殆どなくなり、食事も以前のように摂れるようになっている。
 いつしか二人は小さな公園の入り口に立っていた。何げなく視線を動かした美月はハッとした。
 ここは、かつて晃司の〝妻〟として暮らしていたマンションの隣の、あの公園だった。資格試験の勉強や翻訳の仕事の合間に、美月はよくこの公園に来て息抜きをしたものだ。
 産婦人科病院からマンションまでは歩いて十数分程度の距離になるだろうが、美月には、あの頃、子どもを生むといった考えなど全く頭になかった。病院の存在どころか、名前すら知らなかったのだ。
 あれからまだ二ヵ月余りしか経っていないのに、随分と長い時が流れたように思える。
 十一月を迎えた公園は今、秋たけなわだ。
 あの頃、美月が座って蝉の音に耳を傾けた木陰のベンチは今も変わらず、同じ場所にあった。
 以前と大きく違っていたのは、頭上の樹が鮮やかに紅葉していること。
 秋の穏やかな午後の公園を、二人は並んでゆっくりと歩く。黄金色に染まった銀杏の葉がひらひらと舞い、雪のように二人に降り注いだ。

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