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紫陽花(オルテンシア)~檻の中の花嫁~

第6章 光と陽だまりの章③

 この眼前の悪魔のような男は、たとえ美月が地の果てまで逃れようと、執念深く追いかけてくるに違いない。〝K&G〟ほどの日本でも有数の大企業の社長ともなれば、金を使い人を動かして、女一人の行方や動向を探ることなど、それこそ赤児の手をひねるよりも容易いだろう。
 あまりにも迂闊であった。この蛇のように陰湿で執佞な男から逃れることなぞできようはずもなかったのだ。それなのに、自分は勇一との穏やかな日々がこのままずっと続いてゆくものだと信じて疑うことすらなかった。
「まぁ、その話は良い。とにかく乗るんだ」
 それでも美月が頑なに首を振ると、晃司の声に苛立ちが混じった。
「幾らお前が俺を拒もうと、結局は俺に従うしかないんだぞ? 俺は、お前の男―金田勇一という若造をどうにでもすることができる。明日の朝にでも電話一本であいつを勤め先やバイト先から追い出すことだって不可能じゃない」
 その科白に、ザッと膚が粟立った。言葉だけの脅しではない。この男なら、本当にやるだろう。
「お願いですから、勇一さんには手を出さないで下さい」
 頬を流れ落ちるのが涙なのか雨の滴なのか、美月にも判らなかった。
「判ったのなら、それで良い」
 尊大に顎をしゃくられ、美月は唇を噛みしめた。
 車がほんの少し前進し、助手席のドアが内側から開く。美月の姿は開いたドアの向こうへと吸い込まれるように消えた。
 車が発進する。相も変わらず流れるようなハンドルさばきを見せつけながら、晃司が口を開いた。
「身重の身体に冷たい雨は悪いだろう。腹の子に障るんじゃないのか」
 刺すような鋭い視線が美月の腹部にひたと注がれる。どのような些細な嘘であろうと、見抜こうとするかのような剣呑な瞳だ。常よりも更に静まり返った泉のような冷静さが、かえって不自然だった。
 押口晃司という男は、まるで泉のようだ。水面はいつも凪いでいて静かなのに、その下の水底は淀んでいて何が潜んでいるか判らない危うさと不気味さがある。
「たとえお前が俺を裏切って他の男の許へ走ったのだとしても、俺はお前を許してやる。だが、この質問についてだけは絶対に嘘は許さない。その腹の子は誰の種だ?」
 時間にしては短いであろう沈黙が永遠に続くかと思われた。

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