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そばにいて、そしてキスをして

第2章 変化

「倉沢さん、オーケストラの指揮の代振りで上海行ったんですよ」
「なんで洋輔くんが知ってるの」
「いま、ロイヤルコンセルトヘボウっていうオランダのオーケストラがワールドツアー中で」
「なんか、わかんないけど。そうなの?」
「そのオケのマリス・ヤンソンスって指揮者が急病で、アジア公演は倉沢さんが代振りすることになったらしいです。異例の大抜擢」
「ふーん。詳しいね」
「ネットですよ」

洋輔は大きく息を吐いてから真緒に言った。

「そういう別世界の人なんですよ、倉沢さんは。哀愁ただよう天才音楽家と一年中イネのことで頭がいっぱいな研究者、真緒さんにとってどっちのほうが現実的ですか?ちゃんと松田さんとの距離、詰めて下さいよ。ジャム男のことは忘れて」

無造作に散らした柔らかそうな髪をかきあげた。もうすぐ20代も半ばだというのに、まだ子どものようなあどけなさが残る。なのに、時々こんな風にお節介じみたことを真緒に言うのだ。

「な、何言ってんの」
「じゃ、お先でーす」

本を持った手をひらひらさせて、洋輔は店を出て行った。

「ジャム男…」

松田が研究留学するのは初耳だった。先週会った時は何も言ってなかったのに。帰ったらメールでもしてみよう、と思いながら真緒は店を出る準備を始めた。
松田は仕事が忙しくなるとプライベートなメールは読まないことがある。だから真緒はいつも、松田の興味をひく件名をわざと入れるのだ。

『イネゲノム誤解読について』

これで2、3日中に返事が来るだろう。そろそろイネアオムシが孵化するころだ。松田さんが目を吊り上げて水田を見張る季節だ。

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