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そばにいて、そしてキスをして

第3章 始まり

いつもより閉店時間の早い月曜日、久しぶりに松田を食事に誘ったら、学会で新潟にいると言われた。「行く」ではなくて、既に新潟にいるのだ。全く、ほんとに用がない限り連絡してこない。

真緒は簡単な夕食を済ませ、ネットショッピングでもしようとパソコンを開けたが、ふと思いつき『倉沢貴司』と入力してみた。
ズラリと検索結果が並んだ。
トップに出たのはクラシックニュースというページで、洋輔の言っていたなんとかオーケストラの誰かの代振りが見事だったと書かれていた。それをクリックすると、倉沢の写真が表示された。

燕尾服を着て、真緒が見たことのない表情で指揮棒を構えている。
その下に、プロフィールが載っていた。
それによると倉沢貴司(29)は、23歳でブザンソン国際指揮者コンクール優勝以来、ヨーロッパのいくつかのオーケストラで常任指揮者をしたあと日本に帰国。1年間のブランクを経て今秋から新日本フィルハーモニー芸術監督就任予定。ヴァイオリン、ピアノ、作曲もこなす期待の音楽家である…らしい。
意外とすごい人であるようだ。真緒の周辺は理系人間ばかりで、今回倉沢の件で洋輔がクラシックファンであることが判明したことを除いて、音楽に明るい人間はいない。もちろん真緒自身もだ。
そういう華やかな世界にいる倉沢と、ジャムの砂糖がどのくらいか悩む倉沢が同じ人物だと思うと、人は見かけによらないとはよく言ったものだと思う。そのギャップに、真緒は興味を持った。
倉沢の評価は続く。上海に続きシンガポール、クアラルンプール、と次々成功を収め倉沢貴司はマリス・ヤンソンスの信頼を勝ち得た、とくくられていた。

その時店のホームページにメールが届いたことを知らせるアラートが、スマホに表示されたのでそちらを開いた。
件名は『倉沢です』とある。開封すると、短い文章があらわれた。

『ルバーブのジャム、とても美味しかったです。仕事仲間にオランダのチーズをいただきました。明日夜に帰国しますので、店にお届けします。倉沢』

そして、返信用のメールアドレスが添えられていた。
真緒はまた倉沢に会えると思うと、自然と笑みがこぼれた。洋輔の言う『別世界』の人間である倉沢が、華やかな舞台から降りたあと自分のことを考えてくれたという事実がそうさせた。

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