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そばにいて、そしてキスをして

第1章 出会い

「真緒さん、戻りました」

よく通る声が響いてふと我に帰ると、配達から戻った洋輔が、タオルで体を拭きながら店に入ってきた。

「雨、大丈夫だった?コーヒー淹れよっか?」

こんな天気の悪い日は、客が少ないのをいいことにお茶を飲んだり本を読んだり、好きなことをしている。真緒は本に栞を挟んで立ち上がった。

「ありがとうございます。てか、真緒さん、倉沢貴司!店に来たんですか?ドアが開いて出てきたのが本物の倉沢貴司だったんですよ」
「あー、倉沢…さんね。いちじくの」
「まさか、知らないんですか?倉沢貴司」
「え、有名なの?」

洋輔が言うには、倉沢貴司とはパリ帰りの指揮者でそのルックスも手伝って今や売れっ子音楽家なのだそうだ。

「洋輔くんが知ってるってことは、相当有名なの?」
「オレ、こう見えて実はクラシックファンなんですよ」
「へー…」

指揮者か。
クラシックなんて今まで数えるほどしか聴いたことがない。それこそベートーヴェンかモーツァルトくらいしか知らない。音楽をしている人には恥ずかしくて言えない。

「最近、拠点を日本に移したらしいですよ」
「え?誰が?」
「だから、倉沢貴司ですよ。ホント、真緒さんって天然ですよね。そんなだったら松田さんが浮気しても見破れないですよ」

そう言って洋輔は笑った。
松田さん、とは洋輔の通う大学院の准教授である。そして真緒の学生時代からの恋人でもある。彼のもとで種苗やイネの研究をしていた頃、芽を出したのは種だけではなく恋の芽も出てしまったのだ。

「あはは、松田さんが浮気?してたらちょっと興味あるかも」

もう付き合いは5年になる。時々会ったり食事をしたり、そんな仲だ。結婚の話は出たこともない。私が店を始めたのはその辺りにも理由がある。
その日は客足も伸びなかったので、洋輔は自分の研究課題であるイネの耐虫性についてたっぷり語ってから夕方には研究室に戻っていった。

「松田さんに、私のこと忘れてないか確認しておいてくれる?」
「ははは、マジでそんな会ってないんですか?真緒さんが研究室に来ればいいのに。じゃ、お先っす」

洋輔は雨の中、傘を手にもって走っていった。

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