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そばにいて、そしてキスをして

第4章 戻れない

サングラスをかけ、倉沢はエンジンをかけた。アクセルを踏みながらシートベルトを締めてオーディオのボタンを押した。その動作のひとつひとつが流れるように美しく、真緒はその手に見惚れていた。

「あの…昨日はすみませんでした…」
「ん?何だろう」
「…お見苦しいところを…」

倉沢は口の端を少しあげた。

「あまりにも気持ちよさそうに眠ってたから、あのままにしてあげたくて…」
「は、はい…すごく寝心地のいいベッドで」
「はは。いつでも寝に来て下さい」

倉沢は際どい冗談で真緒をからかった。

「ちょっと山道を走りますけど、大丈夫ですか」
「あ、はい。大丈夫です」

倉沢は少しアクセルを踏み込んだ。それでも車はストレスなく滑るように走った。ほどなくして、同じ市内とは思えないほど豊かな緑が視界を埋め尽くしてゆく。

…こんな場所に住みたいなぁ。

真緒はぼんやりと外を見ながら、そんなことを考えていた。
顔を右側に向けると、開けた窓から入る風が、倉沢の髪を揺らしていた。

この人、どんな人なんだろ…

「あの、倉沢さんってどんな方なんですか」
「え?」

真緒は珍しく頭に浮かんだ疑問をそのまま声に出してしまった。

「す、すみません!つい…」
「答えますよ、質問なら何でも」

倉沢は前を見たまま笑った。

「マオさんって素直だな」

ま、まおさん?なんで、名前を…

「頂いたジャムのラベルに、maoって書いてたから、てっきりマオさんかと」
「いえ、あ、はい。真緒です」

初めて倉沢に名前を呼ばれて、真緒は思考が止まるのを感じた。
松田も洋輔も、『真緒さん』と呼ぶ。でも倉沢の発音するそれは、全く違うものに聞こえた。ものすごく自分の名前がキレイなもののような気がした。

「どんな人間かな…自分では普通だと思っているけど…真緒さんが思う僕が、僕なんじゃないかな」

また。
倉沢の言葉はどれも真緒の中に違和感なく入ってくる。どんな人間かなんて、自分がどう思っていようと結局他人の感じ方次第なのだ。それが真実であろうとなかろうと。

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