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そばにいて、そしてキスをして

第5章 そばにいて

玄関のドアを開けると、倉沢は何も言わず部屋に入った。ジャケットを脱ぎ、ソファの上に投げた。そして真緒に背中を向けたまま窓際に向かった。
倉沢は何も言わず、窓の外を見ている。
真緒は、これから起こるかもしれない何かを思うと胸が締め付けられそうだった。

……何か言ってよ…

こんな切ない恋の始まりは、初めてだった。

「…真緒さん、僕は間違ってるかも知れない。だけど…」
「倉沢さん、一瞬でも私のこと抱きしめたいって思ってくれたでしょ?」
「え?」
「それで……いいじゃないですか」

真緒はできるだけ笑顔で言った。

松田との恋愛は、最初こそ楽しかった。同じ研究をして、同じことで悩み、同じ喜びをわかちあった。実験が失敗すると一緒に泣いた。でもそれは同じものを見ていただけで、お互いを見ていたのではなかった。
そしていつの間にか研究がうまく行かなかった日には真緒は暴力的に抱かれ、徐々に八つ当たりの対象になった。
それでも松田といるのは、同じ研究者としてその気持ちがわかるからだ。研究という孤独との戦い。

しかし真緒は、昨夜倉沢に抱きしめられた瞬間から気付いていた。

本当はこんな気持ちが、欲しかった……
『私』を必要としてくれる誰か……

真緒は背中ではなく、今度はまっすぐ倉沢の胸に飛び込んだ。それに応えるように、倉沢はしっかりと真緒を包んだ。

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