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そばにいて、そしてキスをして

第1章 出会い

さて、何をしよう。
真緒はとりあえず冷めてしまったコーヒーを飲み干し、栞を挟んであったページから読み始めた。ずっと昔に、夢中で読んだ旅行記だ。
そのとき、ふと人の気配がして振り向くと、昼間来た倉沢貴司が店の外に立っていた。さっきと同じ、白いシャツに今度は傘をさしている。

「あの、何か?」
「さっきいちじくを配達してもらった倉沢なんですが…」

ドアを開けると、倉沢が雨を避けて一歩中に入ってきたせいで距離が思いの外近くなった。真緒は背は低いほうではないが、それでも倉沢を見上げる形になった。

「手袋を忘れていかれたみたいで」

そう言うと、倉沢は洋輔のものであろう軍手を差し出した。

「わざわざすみません。雨なのに…」
「いや、ちょっとお聞きしたいこともあって…」
「…?何でしょう?」

倉沢は手を軽く顎に当てて、真緒をまっすぐに見た。その美しい手に、真緒は思わず見とれてしまった。

「いちじくのジャムを作ろうと思ったんですが、砂糖の量に悩んでしまって」
「え…?お砂糖の量ですか?」

その端正なルックスとバランスの取れた長身の倉沢が、砂糖の量に悩んでいる。そのギャップがおかしくて、真緒はつい笑ってしまった。

「ジャムを作りたくて買ったのに、全くわからなくて」
「す、すみません。笑ってしまって…」
「いや、いいんです」

この人が本当に洋輔の言う売れっ子指揮者なんだろうか?確かに燕尾服を着て舞台に立ったら画になりそうだけど。

「果実の、6割くらいの量でしょうか。私の好みですけど」
「なるほど。やってみます。ありがとう」

そう言うと倉沢は店を出ていった。
真緒はその後ろ姿を、温かい気持ちで見送ってドアを閉めた。

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