テキストサイズ

そばにいて、そしてキスをして

第6章 心が緩む場所

改めて部屋を見渡すと、本当に何もない。引き出しを開けるほどの勇気は持ち合わせていないので、目に入る範囲だけだが。
松田の部屋とは正反対だ。
本や書きかけの論文が乱雑に(しかし松田に言わせると整然と)置かれた机や、取り込んでそのままにしてある洗濯物、成長過程を観察中の植物。それらで溢れているのが松田の部屋だった。
初めて訪ねたのは、大学院生になったばかりの頃だった。
あの頃から、ずっとずっとふたりの間には研究があって、それについての喜怒哀楽があって、それなのに恋人のぬくもりは、なかった。

でも。

ここには、それがある。
がらんとした部屋でも、心を温めてくれる人がいる。それが、例え誰かの代わりだとしても……

「…千帆…帰ってたのか」

背後で開いた寝室のドアをゆっくりと振り返ると、そこにはまぶしいほどの笑顔をたたえた倉沢がいた。

「貴司くん。ただいま」

その姿を見ていると、自然に言葉が口をついて出た。膝の上に広げていた楽譜を閉じて胸に抱えて立ち上がると、倉沢が駆け寄ってきた。

「……おせーよ」

この上ない優しい声で『彼女』を抱きしめ、髪を撫でた。真緒はこのぬくもりが自分のものになるなら、倉沢が誰を見ていようと構わないと思った。

「ごめん。わかってる…わかってるんだ」

涙声でそう繰り返す倉沢を、真緒はいとおしい気持ちで抱きしめ返した。
私なら、心に空いた穴を埋めてあげられる、と。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ