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そばにいて、そしてキスをして

第7章 私じゃなくて

結局1週間、店を閉めることにした。
洋輔も舞も学生の身、迷惑をかけるわけにはいかないのだ。
真緒自身も疲れていた。
少し立ち止まって、なにもせず心を空にしてそれで元に戻ればまた店を開ければいいし、戻らなければ…その時考えよう。
倉沢のことも、何もかも全部。

「だめだ…会いたい」

自分の部屋のベッドに寝転んで、脳を休めるためにひたすら眠ろうとしているのに、頭に浮かぶのは倉沢のことばかりだった。
髪を切った真緒を見た時の、倉沢の涙が忘れられない。自分でも驚くほど似ていた、あの写真の女性。
倉沢は『千帆』と呼んだ。こんな時代である。パソコンで任意の検索ワードを入力すれば、知りたいことは大抵知ることができる。
…知りたくないことも。

千帆、とはピアニストの芹澤千帆のことだった。パリを拠点にヨーロッパで活躍するピアニスト。倉沢の大学時代の後輩で卒業後ともに渡仏し、それぞれ活躍の場を広げてきたらしい。
しかし2年前、彼女は突然他界。倉沢はショックのあまり1年間全ての活動を休止した。その後帰国、新日本フィルハーモニーの芸術監督を一度断ったものの翻って引き受けた、という。

彼女は、もういないんだ…

真緒は軽率だったと後悔した。
今となっては倉沢の記憶の中で生きる恋人に似た自分が、倉沢と深い関係になる意味を。普通の恋愛とは、違う。
倉沢が見ているのは、真緒を通した『芹澤千帆』なのだ。

『ごめん。わかってる…わかってるんだ』

倉沢はそう言った。彼の心から、千帆は消えていない。むしろ似た真緒との出会いによって、鮮やかによみがえったかもしれない。

その時、インターホンが鳴った。

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